2023/04/08

保坂和志の小説的思考塾。今回は「ポリコレ問題」が主題。聞いている側としても緊張状態に置かれるような題材だ。以下は、内容の紹介でも、保坂さんの発言に対するコメントでもなく、話を聞きながら考えたり、思い出したりしたこと。

セクシャリティにかんする言葉遣いはここ十年、二十年くらいで大きく変化した。その影響は、例えば保坂さんが「性転換手術」と言ったときに、それは今は「性適合手術」と言うんだよなあと自動的に思ったりする程度には、ぼくも受けている。だけど二十年前には、同性愛とトランスジェンダー性同一性障害との区別の認識も曖昧だった。能町みね子のデビュー作は『オカマだけどOLやってます。』というタイトルだが、今の能町みね子は決して「オカマ」という言葉は使わないだろう(能町みね子の本は『結婚の奴』しか読んでないが)。しかし、2005年当時はまだ、社会に流通している言葉で自分を表現する言葉が「オカマ」しかなかったということだろう。セクシャリティーに限らず、ジェンダー意識の変化も大きくあり、例えば「女流作家」という言葉は完全に死語になったし、「女優」という語も、そう遠くない将来に消えるだろうと思う。

ある概念が流通することで、それまでただモヤモヤしているだけでうまく言えなかったことが言えるようになるということがある。例えば「トーンポリシング」とか「シーライオニング」という概念を覚えると、今までそういうやり方で自分に圧力をかけてきた(しかし、どう言い返したらよいか分からずモヤモヤしていた)相手に、明快に理屈の通ったやり方で反論することができるようになる。また、自分が過去に、あるいは今でもなお、そういうやり方で人に圧をかけていることがあるのではないかと反省することもできるようになる。

言葉の配置の変化、新たな概念の一般化は、ジェンダーセクシャリティー、秘められた(秘めている権利がある)内面などにかんする、権力関係の不均衡やバイアス、抑圧や暴力のあり方についての認識の解像度を上げ、それにかんする配慮を繊細なものにすることを可能にする。これはもちろんポジティブなことだ。

しかしここで、いくつか問題も出てくる。一つは、繊細な人が、他者に対してより繊細であることを自分自身に強いて、その強すぎる超自我が自分自身を強く抑圧し、縛り、傷つけてさえしまうのではないかという点。一つは、元々繊細で、他者に対する敬意を強く持つような人ばかりが、さらに配慮を強めることになって、本来ならそこに届けるべき、他者への敬意や権力への配慮の足りない人にはこの変化がなかなか届かず、むしろ(急激な言説的な環境の変化についてこれないことによる)逆ギレ的なバックラッシュを生み出してしまうこと。一つは、元々はポジティブであるはずのもの、あるいは見えなかった苦痛(加害/被害関係)を顕在化させるためものが、「他者を攻撃したいという欲望の発露」のための道具として使われてしまうこと。「正義」だと社会的に認定されたものを後ろ盾にして、他者を過剰に攻撃しようとする人の存在。

三つ目の問題は深刻で、この「正義を後ろ盾に他者攻撃の欲望を叶えようとする人」が、一人で、顕名であればまだしも、SNSの発達という環境の元、「正義」を後ろ盾にした匿名の多数が攻撃の欲望を炸裂させる。仮に誰かが「非難されて当然のこと」をしたとしても、炎上が起きてしまうと、正当な非難(その人のしたことの、何が、どのように問題であるのかを、その人に対して訴えること)すら困難になってしまう。誰だって攻撃されれば自動的に防御的(あるいは対抗的)な姿勢をとることになるので、過剰な攻撃はあり得たかもしれない対話・改善の可能性すら潰してしまう。そして多くの人が、炎上を避けるために身を固くして、常に気を使って安全策をとることを余儀なくされる。表現は萎縮し、元々、「他者へ敬意」から発したものだったはずが、たんなるリスク回避、セキュリティの問題に成り下がってしまう。

(ここに、二つ目の問題が絡んでくる。保坂さんが、クリーンな人ほどスキャンダルに弱いと言っていたが、元々、他者を傷つけないように配慮している人は、それが不十分であった時、「お前は他者を傷つけている」という指摘に深く傷つくが、初めから他者への敬意など持たない人は、そのような指摘で自分が傷つくことはない。むしろ「タブーを破ってやった」的なポーズとなる。これも深刻な問題だと思う。)

この回で保坂さんが問題としているのは、この一つ目と三つ目のことであると思われる。大雑把に言えば、一つ目に該当するような配慮しすぎるような人に対して、もう少し緩く構えて良いんじゃないかということと、そして、三つ目の「攻撃する人」にかんしては、基本的には気にする必要はない、ということではないか。まとめとしては雑すぎるが。

●他者への敬意としてあったはずのものが、セキュリティ問題になってしまって、過剰な抑圧になって表現が萎縮する例として、3月26日の日記に書いたChatGPTの振る舞いがあると思う。

furuyatoshihiro.hatenablog.com

ここでChatGPTは、ぼくの夢の中にある差別的なものの気配を鋭く察知して(そこまでは素晴らしいのだが)、それに最も安易な形で蓋をしようとする。その結果、決して間違ったことの言えない優等生の作文のような表現になってしまう。ヤバいものには初期段階で蓋をするという態度は、リスク回避としては有効だが、それは例えば「差別」というものにかんして深いところで思考する機会を失わせる。

(隙あらばAIを攻撃したいという人はたくさんいるため、AIがこういう防御的な振る舞いをしてしまうのは仕方がないのだが。)

●保坂さんは、差別の問題は「紋切型」の問題に帰着するというようなことを言っていた。ぼくはそれに加えて、「恐怖」というものが作用しているように思う。

紋切り型にかんしては、認知限界が絡んでくるように思う。一人の人が関心を持ったり意識したりできる範囲と量は限られており、当面差し迫って必要なことと、主に関心を持っていること以外については、大抵の人は、ふわっとしたイメージによって処理している。そしてこの「ふわっとしたイメージ」は多くの場合、かなり偏った紋切り型なのだ。そしてこの「ふわっとしたイメージ」の部分が、何かを判断するときに大きく影響する要素となったとき、その判断が、そうとは意識できないまま差別的なものになってしまうことがある。これを避けるためには、物事の一つ一つを丁寧に吟味する必要があるのだが、どうしたって認知には限界があるので、あらゆる場面においてそれを充分に行うのは難しい。

より厄介のなのが「恐怖」だ。人は、恐怖の対象について差別的になってしまう。というか、恐怖の対象であるにもかかわらず自分がそれを恐怖していることを認めたくない対象に対して、差別的になると思われる。自分の生活基盤が崩されているという感覚を持つ人が、「近い他者」に対して差別的になるのはこのためだと思われる。これを回避するためには恐怖を解消する(知識によって・コミュニケーションによって)しかないと思うのだが、恐怖は、人間の最も根源的な感情の一つであり、最もコントロールが難しい感情の一つでもあると思うので、これは非常に困難だと思われる。

●権力は、その場に応じて様々な働き方をする。晩年の大江健三郎の擬似的私小説の主人公は、現実の大江に限りなく近い高名な作家であり、つまり「権威ある男性」そのものだ。彼は、権威ある男性であるからこそ、様々な人たち(女性たち、若者たち、家族たち、政治的に異なる立場の人たち…)からの批判や非難に常に晒されており、その批判や非難のいちいちを、正面から真に受けて、そのたびに大きな揺らぎを見せる(最も強い批判者は「息子の存在」かもしれない)。批判を真に受ける事によるアイデンティティーの揺らぎが、晩年の大江の小説を動かしている大きな力のうちの一つだと思われる。彼は、社会的な地位としては権威ある男性であり、家父長であるが、批判を真に受ける場においては、ほぼ一方的にパンチを喰らう側にあり、無力で受動的な位置に置かれた弱者となる。そして、しばしば彼は、自分を批判する者たちに加担し、「権威ある男性」としての社会的力を、批判者への協力のために献上しさえする。しかしそれでもなお、彼は「行動する者たち」から置いてきぼりにされ(裏切られ)、「向こう側」に渡りそこね、「こちら側」でそれを記述する役割に甘んじる。そしてここでも、お前は結局「書くこと」によって全てを制御する権力の位置にいるのではないかと批判され、その批判もまた正面から真に受けられる(例えば『水死』から『晩年様式集』への流れなど)。このような何重にも重なる、受動-能動の逆転と力のせめぎあいが「文」の中に折りたたまれていく。

権力の勾配や暴力的な抑圧のありようは、何重にも重ねられているし、その「場」によって様々に変化するので、常に個別的に「その場」について丁寧に見ていく必要があり、たとえ「権威ある男性」だったとしても、常に力の優位の位置にいるとは限らない(「権威ある男性」であることに変わりはないとしても)。

タランティーノの「政治的な正しさ」に対してずっとモヤモヤするものがあり、それは彼への不信(あるいは、彼を支持する人への不信)となり、『ジャンゴ 繋がれざる者』を最後に、それ以降の映画は観ていない。彼は、「デス・プルーフ」では女性たちの側に、「ジャンゴ」では黒人たちの側につく。それは政治的に正しい態度と言えるだろう。

「ジャンゴ」では、黒人たちがひたすら酷いめに合わされ、白人たちはひたすら酷いことをしつづける。さらに、黒人たちの中にも、白人にうまく取り行って、黒人たちを責める役割りに回る者もいる。そしてこの話は、史実にそれなりに忠実に作られているという。ここまではいい。

映画のラストは、それまでずっとずっと耐えてきた黒人女性が、とうとう反撃に出て、「悪い白人」を完膚なきまでに叩き潰す。それを観る観客は溜飲が下がり、スッキリする。だが、それでいいのか。ここで「悪い白人」を殺すまでに至る主人公の「怒り」そのものは、当然のことだと納得する。しかし、そのことと、それを観た観客が「スッキリしてしまう」こととは違う。ここでは立場が逆転しただけで、悲劇的構造は継続されたままであるから、観客がスッキリしていいはずがない(観客がスッキリするような形で作っていいはずはない)。この構造は、単純な勧善懲悪の「悪い奴をやっつけてスッキリする」エンターテイメントのものだ。だが、実際にアフリカ系の人たちが被ってきた酷い歴史的事実を、スカッとスッキリする単純なエンターテイメントのために利用してしまってよいのだろうか。

問題は何一つ解決されていない。ただ、優劣関係が逆転しただけで、対立構造そのものは変わらずすべてそのまま残されている。ここには、差別や暴力的な支配-被支配の関係を、ほんの少しでも改善し緩和しようとする努力の気配すらないままで、主人公の置かれた厳しい状況とそれへの強い「怒り」の蓄積、そして爆発を、観客をスッキリさせるための原資として利用してしまっているように、どうしても見えてしまう。

ここでタランティーノが、「背後に正当化できるもの」を何も置かずに、ただ、映画において人を殺していく快楽だけを追求していたとしたら、それが好きかどうかはともかく、不信は抱かなかったと思う。

●既に「正義」と認定されているものを後ろ盾にすることに対する不信は、ぼくにはどうしてもある。