●引用、メモ。『ブルーノ・ラトゥールの取説』(久保明教)、第五章「私たちとは何か」より。
《第一に、私たちが世界を適切に認識し適切に働きかけうることの根拠を、理性的な人間のあり方に求めるモダニズムの発想がある。「知る」ということは、外側から客観的に対象を観察し、対象と正確に対応する表象を与えることである。知る者と対象がとりもつ特定の関係性から生じる影響は知識を歪めるノイズとされ、可能なかぎり排除される。厳密に考えれば、あらゆる対象は世界内の様々な事柄と関係しているから、ノイズを排除するために知る者は世界に外在していなければならない。》
《こうした現在でも一般的な知識観において、研究者と一般人は「知る者」と「知らない者」の非対称的な関係において把握される。一般人がある対象Xについて、「Xとは何ですが?」と質問し、研究者は「Xとは~~です」と答えることで対象に正確に対応する言明を与えるという関係である。》
《第二に、世界と言明の間に何らかの人為的なフィルターを措定することによって、いかなる知識も絶対的ではないことを強調するポストモダニズムの発想がある。そこでは、知る者が対象や世界に内在的に関係していることが強調され、知識の妥当性は、世界と言明の対応を仲介する社会的、文化的、言語的、理論的なフィルターによって規定されることになる。》
《ポストモダニズムは、フィルターの介在(構築されていること)を真実ではないことを意味するものとして捉える限りにおいて、対応説を放棄していない。フィルターなしの純粋な対応、構築されていない真実がどこかにあることが想定されなければ、全てが構築されていることになり、わざわざ「○○は構築されている」と主張する必要もなくなるからである。「構築されていない真実」は、本当は構築されている事実を厳然たる事実と取り違えている一般人の頭の中に、あるいは事実の構築性を徹底的に疑う学問的探求の行き着く先に位置づけられる。》
《モダニズムにおける「なかば抹消された神」が、公的な実在性を持たない私的な信仰の対象であるように、ポストモダニズムにおける「構築されていない真実」は、学問的な正当性持たない私的な信念(一般人の信者、研究者の探求)の対象である。》
《研究者と一般人の関係は、「知る者」と「知らない者」の対比から「疑える者」と「疑えない者」の対比に移行するが、非対称性は維持される。一般人がある対象について、「Xとは~~ですよね?」と質問し、研究者は「『Xとは~~である』とあなたが考える背景には○○という要因があるかもしれません」と答えることで、世界と言明とを仲介するフィルターを示唆するという関係である。》
《第三に、近代的な対応説を退け、世界に外在する知識を世界に内在する関係性の一時的な外見上の効果として捉えるノンモダニズムの発想がある。》
《私たちが内在する異種混交的なアソシエーション、原理的に還元不能な諸要素の原理的に制限のない結びつきの動態を通じて様々な事実が生みだされる。それらが外在的な知識に見えること自体は認められるが、それは特定の仕方で作られた関係性(習慣[HAB])の暫定的な効果にすぎない。あらゆる現実は諸関係の組替えによって構築されるものであり、だからこそ、構築は真実でないことを意味しない。》
《そこで問われるのは、真実か虚偽かではなく、よりよく構築されているかどうかである。》
《ノンモダニズムにおける(…)一般人と研究者の関係は「アクター」と「アクターを追う者」として連続的に捉えられ、研究者もまた世界に内在するアクターであるから、両者は対称的に捉えられる。一般人がある対象Xについて「Xとは~~ですよね?」と訊き、研究者が「『Xが~~である』ことに関してあなたがやっていることを私に追わせてください。追跡と報告がうまくいけば私たちは議論を呼ぶ事実としてXを捉えられるようになるでしょう」と応えることで、両者は共にこの世界(=アクターネットワーク)が組み替えられていくプロセスに携わる関係になる。》
●岸政彦とマリリン・ストラザーン、とラトゥール
《以下では、研究者と研究対象となる人々を非対称的に扱わないという点でラトゥールと部分的に重なる二人の論者を挙げて、ラトゥールと比較してみたい。》
《岸は(…)被差別の当事者が差別の存在を否定するように語る時、社会学者はいかなる分析ができるのか、という問題を論じている。(…)差別が存在するという社会学者の前提は、当事者の語りの事実性を否定すれば維持できるが、語り手の尊厳や能力は否定されることになる。逆に、語り手の発言をそのまま肯定すれば、語りを尊重することにはなるが、差別という社会問題の存在が消去されてしまう。》
《岸は、語り手の存在を尊重すると同時に差別が存在することの重大性を棄損しないために、社会学的な理論自体を変更することを提案する。それは、社会学理論自体が経験世界と言明を媒介する社会的フィルターの一部であることを認めた上で、分析する者が分析される者との相互作用のなかでフィルターを組替え、世界とより適切に対応する言明を生みだそうとする試みとして捉えられるだろう。》
《(岸政彦からの引用…)もし、差別されたことがないと語る沖縄の人々が、それでも帰郷の道を選んだとすれば、むしろそちらのほうが本土と沖縄を隔てる壁が高く厚いということではないだろうか。このように考えれば、差別という概念では「狭すぎる」のである。[…]私はこのことを、差別ではなく「他者性」あるいは「他者化」という概念でとらえ、紆余曲折を経て、最終的に「同化圧力が強いほど、他者化される」という仮説に至った。》
《(…)岸にとって「構築されていること」は真実ではないこと(事実と乖離していること)を意味しない。(…)フィルターの一部をなす社会学理論の構築性を修正可能性として読み替えていく。語りは構築されているからこそ修正できるし、修正によってより確かな(=事実と対応する)言明を生みだすことができる、というわけだ。》
《研究者と研究対象者との対称性は、事実(世界と言明の対応)が生みだされる公的な討議の場に両者が参与することにおいて認められる。ただし、公的な討議の場に入ろうとしない者、討議の場を破壊しようとする者、討議において扱いにくい語りを排除することは妨げられていない。》
《(…)「討議」という概念を重視する人々にとって、ある種の(非討議的な)構築に携わる人々を排除することは認められるのかもしれないが、それが「公的」という名に値する営為なのかは問われることになるだろう。》
《ストラザーンは、学問的な分析概念としての「社会」に相当するものが彼女の分析対象であるメラネシアに存在しないことを強調する。彼女が試みたのは、メラネシアにおける人々の実践を近代的な分析枠組みによって説明するのではなく、むしろ、諸々の実践を説明するメラネシア固有の論理(「彼らの哲学」)に可能なかぎり沿う形で学問的な分析概念(「西洋思想における形而上学」)を用いることによって、近代的思考に基づくそれらの分析概念を変形させていくことであった。》
《岸が提案する理論の変更は、「厳然たる事実」への希求に基づいて行われる限りにおいて「修正」である。これに対して、ストラザーンの論述は、近代的な思考の枠組を修正することでメラネシアの事実を透明に反映しようとするものではない。理論の変更は対象との一致を帰結しない。齟齬は残され、関係づけられ、増幅される。(…)研究者と研究対象者の対称性は、互いに互いの視点を包摂しあうことにおいて展開され、原理的な齟齬を伴う相互作用に基づく民族誌的テキストが、そこから様々な思想と論理が取り出されうるような人工物として構築されることになる。》
《岸は、社会問題に誠実に携わろうとする社会学者として、対話的構築主義を超えて実在への回路を再建しようとする。ストラザーンは、異文化を可能な限り内側から捉えようとする人類学者として、近代的な分析枠組みと研究対象となる人々のどちらにも還元できないが両者と部分的につながりうる、豊穣だが難解なテクストを構築している。》
《ラトゥールにおいて、研究対象者と研究者の対称性は、討議を通じて事実に関する合意に至ることや、両者のいずれにも還元できない部分的つながりを生みだすテクストによって具体化されるものではない。そこでは、両者が噛み合わないまま話し続けることで反論の連鎖を生みだし、広範なネットワークの再編につながるような議論を進めることが目指される。あるアクター(対象)について分析することは、そのアクターがとりもつ諸関係に連なることであり、そこに新たな諸関係を導入することである。だからこそ、分析する者と分析されるものとの間には常に齟齬が生じる。分析する者が提示できるのは「失敗と隣り合わせの報告」でしかないが、分析される者と媒介項同士として関わることを通じて、「議論を呼ぶ事実」を構築することも可能になる。》
《それは、所与のコンテクストを前提としないものたちが、噛み合わないままに発話=分節化しあうことのできる場である。》
●私たちとは何か
《(…)アクターネットワークは外在的な対象ではない。私たちはこの世界=異種混交的なアソシエーションに内在しており、それに外在しているように見えるのは、多数の媒介項の蠢きが少数の仲介項に変換されている一時的な状況に限られている。一章でみたように、私たちが何かを製作することはその何かを完全に制御できることを意味しない。神も精霊もコンピュータも原発も、私たちが他の存在者と共にその構築に関わっている存在者であり、それらを思いのままにコントロールできるわけではないことは明らかだろう。ラトゥールの議論において、汎構築主義は世界に外在する者の能動性ではなく、世界に内在する者の受動性と結びついているのである。》
《第三章「社会とは何か」で検討したように「人間は自分たち自身で存在しているわけではない」。第四章「近代とは何か」で示したように、構築の良し悪しを判断する価値基準もまた、異種混交的なアソシエーションが産出するものであり、人間の占有物ではない。(…)私たちは非人間と結びつくことで以前とは異なる存在へ変化し続けてきたのであり、その変化を前もって完全に理解することも制御することもできないし、現にしていない。》
《まだ関係性のなかに取り込まれていない未知の要素をあらかじめ確定したり制御したりすることはできない。こうした内在的な外部要素を、ラトゥールは「プラズマ」と呼ぶ。(…)近代的な対応説が措定してきた世界に外在する視点を退けるノンモダニズムにおいて、新たなかたちで外部が見いだされる。それは超越的でも超越論敵でもない、この世界の内側にあるつながりの隙間としての外部である。》
《(…)膨大な不可知的要素としてのプラズマを「社会」や「自然」に還元可能なものとすることで「空白を埋めてはならない」》
《(…)理性と力を区別しないラトゥールの非還元主義は、理性を力に還元するマキャベリ主義的発想として批判されてきた。だが完全に能動的にも受動的にもなりえない異質な他者との関わりを通じてネットワークの組替えに携わることは、力を行使しながらその理(価値基準)を生みだすことである。内在的な汎構築主義は、理性に訴える人々が重用してきた、対立する他者を「力」の側に置くことで排斥する論法を避けるが、同じく彼らが大事にしてきた、関係性を暴力的に分断すべきではないという倫理的判断を論理的に強化する。》
《「私たちとは何か」という問いに対して、ラトゥールの議論から敷衍して得られる応答は次のようなものになる。近代人としての私たちは非還元主義による知のデトックスを必要とするのであり、分析する者としての私たちは噛み合わないまま話し続ける技法を培うべきものであり、生活者としての私たちは「経験的・超越論的二重体」としての人間から離脱して、世界の絶えざる構築に参与することの受動性を引き受ける筋道を探るべきものである。》