2022/07/01

●『アクターネットワーク理論入門』(栗原亘・編著)、最後まで読んだ。面白かった。第三部はどれもすごく面白い。以下、第十章「存在様態論と宗教」(小川湧司)から、引用、メモ。

(…)ある言明が真実になる(実在するようになる)ためには、うまく話さなければならない(構築しなければならない)。この際も構築と実在に関するラトゥールの議論と含意は同様であり、うまく話をすることとその結果何らかの真実が生まれることの間のプロセスを記述し検討しなければならない。》

(…)「実在性を得る構築のあり方」、「真実を得る話の仕方」はただ一つしかないのだろうか、というものである。このあり方が複数あるとしたらどうだろうか。たとえば、科学実験から生まれた事実が誰しも認める教科書の一ページになるまでの軌跡と、ある宗教集団での祈りが誰かを救済するまでの過程は、まったく同じやり方で理解できるだろうか。(…)実際に、それはほとんど不可能な試みだろう。(…)ラトゥールが行ったのは、実在や真実を作る方法を複数提示することだった。》

(ラトゥール「フレームを凍らせることなかれ」からの引用…)私は宗教一般について語ることはしません。つまり「宗教」と呼ばれる普遍的な領域・テーマ・問題があり、それが、パプアニューギニアからメッカ、イースター島からヴァチカンまで神々や儀礼や信仰を比較できるようにするとは考えません。(…)誠実な信者はただ一つの宗教しか持ちません。異なる宗教を比較しながらも宗教的仕方で話せるような視点などありません。おわかりのように、私の目的は宗教について話すことではなく、みなさんに宗教的に語ることです。》

《この引用部分では二つの点が注目に値する。第一に、ラトゥールはキリスト教、とりわけカトリックからみた「宗教」を扱うという点を明言することで、19世紀の社会科学から連綿と続く一般概念としての宗教をめぐる議論に参与しないことを強調している。第二に、一般概念としての宗教を定義はしないが、キリスト教(カトリック)において、「カトリック的にうまく話す方法」は規定することができるのであり、その特定の仕方で話すことによって「福音」を伝えることができる。》

《ラトゥールは『探究(存在様態探究---近代人の人類学)』において、何かがそれ自体存在様態の地位を与えられるかどうかを決定し、それぞれの特徴を評価するために、ある一連の方法を使うことで対処している。この方法とは、(ⅰ)いくつもの種類の存在様態が混同されている「カテゴリエラー」を発見し、「宗教はXではない」(e.g.政治ではない、科学ではない、法ではない)というモーメントを考えて各存在様態を示すという否定的な仕方で分類を行い、次に、(ⅱ)「適切性条件/不適切性条件」を用いて実定的に各存在様態を/において「うまく構築する/話す」方法を定義することである。》

(…)たとえば「宗教は科学ではない」という否定的命題、つまり宗教と科学を同じ類のカテゴリとして捉えてしまうカテゴリエラーについては次のように議論される。まず「科学的に」話すには、参照文献をつけ、どの情報がどのソースに関連づいているのかを示し、その情報をゆがめることなく伝えることが不可欠である。(…)ところが、「宗教的」発話にはそのような参照の連鎖は必要なく、ゆがみなく情報を伝える仕方で神父は説教をしていないとラトゥールは考える。》

(…)説教学では、聖書をただ朗読するだけでなく、目の前にいる会衆にキリストの教えを伝えるためにはどうすればよいかという点が問題になる。しかし、説教に含まれた情報を、聖書のどこにそれが書いてあったのかが明確にわかる仕方で解釈したり引用したりする必要はないし、またそうした手続きによって説教の内容が立証されるわけでもない。》

《このカテゴリエラーがもたらす帰結として「宗教的」発話を「科学的」に検証しようという試みはすべてうまくいかないとラトゥールは考える(…)。たとえば処女懐胎という現象を科学的に語ろうとしても、マリアが神から受けた祝福についての物語を「福音」として効果的に伝えることができないため、物語の意味は改変されてしまう。こうしたカテゴリエラーのために、宗教も科学もどちらも勘違いされてしまうとラトゥールは主張する。(…)たとえば、「マリアとは実は誰だったのかと尋ねたり、彼女は本当に聖処女だったのかを確かめたり、彼女を精子の光線で妊娠させた通路を想像したり(…)する」ことはダブルクリック的問いである(…)。というのは、これらは科学的な問いではないし---参照や引用や情報のゆがみなき伝達を使っていない---、宗教的な問いでもない---この問いは福音を伝えるどころか、福音とまったく関係がない---からだ。(…)つまり科学者の微細で大変に労力のかかる実践も、宗教者が伝道と救済のために話す説話も、どちらも正当に扱わず、両方とも台無しにしてしまう。》

(ⅱ)にあける[REL(宗教の存在様態)]実弟的な提示は、オースティンの発話行為に倣い、その適切性/不適切性条件、つまりうまく構築する/話す条件とその失敗の条件を設定することで行われる(…)。「歓び」において、[REL]の適切性条件が五つ提示されている。ラトゥールによると「宗教的に」うまく話し実在を生み出すには、救済の言葉はわかりやすくなければならず、「いま・ここにいる私たち」に向けられたものでなければならず、科学のように参照を利用した情報伝達をしてはならず、④(対象を)一時的ではあれ再び取り戻すという効果をもたなければならず、⑤調和や一致、同一性や人格が刷新されなければならない(…)。》

《ラトゥールは、②④⑤を、[REL]の「再-現前化(re-presentation)」という性質へと集約させる。ここでいう「再-現前化」とは、たとえば過去のキリストの死が「いま・ここ」にいる私たちに対して意味をもつという時間性、およびそのことで人間が神や他の人間との関係を「新たに作り直す・提示する」という効力の双方を現している。この議論は、過去が現在に凝縮された仕方で現れ、そして作り直された関係は、かつての関係と構成要素がまったく同じであっても、それは「新たにされた(renewed)」関係となる(…)。》

《「再-現前化」は、メッセージが常に変化し続ける(新しくなる)にもかかわらず、それが聞き手を変える限りにおいて、オリジナルに忠実で同一なものとして受け取られるような発話の特徴であると言い換えられている。》

《たとえば、ある日曜日の朝、皆が教会に集まって讃美歌を歌い、説教師が話し出し、祈りを捧げていると、「いま・ここ」において、キリストは誕生し十字架につけられ三日後に復活し、使徒ペテロは裏切りを赦されて精霊に満たされる。当然、キリストが2000年前に発した発話のメッセージは説教師や宗派や教理や政治的力により形を変えるにもかかわらず、それが聞き手を「新しくする」のであれば、かつてキリストが発したのと同じ言葉として受け取られることになる。そしてその礼拝の参加者は「精霊に満たされて」、神との関係や隣人との関係を「新たに」する。2000年前のエルサレムで起きたキリストの死によって現在の私が「すでに救われている。という時空間を超えた救済を、罪を犯す度にそして悔い改めの祈りをする度に、キリスト教徒は何度も思い出すことになる。》

ANNから存在様態論への動きは、宗教一般の概念を使わないながらも宗教的に語る方法を提起することを可能にしている。それはラトゥールが言っていたように、「宗教について語るやり方」ではなく、宗教をなんらかの変換を伴うネットワークにおける実在や真実の構築として捉えることによってその特徴を評価しようとする手段なのである。》