●『レネットとミラベル/四つの冒険』(エリック・ロメール)をアマゾンで観た。これだけ喋りまくって、説明して、解釈して、議論して、それでも「言葉は必要ない」と強弁するというアイロニー。数えたわけではないが、「沈黙」という「言葉」が一体何回でてきたのだろうか、という映画。
言葉の交換とお金の交換の映画で(というか、お金や言葉の、「正当な交換」と「正当でない交換」が交換する映画で)、その、すべての饒舌、すべての交換と拮抗するのが、最初のエピソードで自然が沈黙する「青の時間」である、と言える。しかし、一夜目の「青の時間」はエンジン音と犬の鳴き声で妨害されてしまう(青の時間の体験は次の夜に持ち越される)。同様に、沈黙は常に過剰な言葉によって覆い隠される。ロメールの映画にはいつも、このようにきっちりとした図式という下絵がある。
三つ目のエピソードで、監視員から目をつけられた万引き女を救うために、ミラベルが隣り合ったレジから万引き女のバッグをすっと掠め取る(その後、監視員が声をかけても、万引き女は万引きした品を持っていないので逮捕できない)。この場面を観て、おお、よいアクションを観た、と思っていると、次の場面で、ミラベルは自分のした行為を丁寧に言葉でレネットに説明する。ここで、レネットにははじめて聞く話だとしても、観客は、一度場面として目撃した出来事を、重複してもう一度ミラベルの「語り」として聞かされることになる。通常は、冗長さを避けるために、説明の言葉は(「ミラベルがレネットに説明する」という事実を示すだけで)省略されるだろう。しかし、ミラベルの説明は一言もカットされることなく示されている。あたかも、説明が具体的場面を塗りつぶしてしまうかのような言葉の過剰があり、そのことがこの映画の性質を現している。四つ目のエピソードで、レネットが「絵を観るのに言葉は必要ない」と言う言葉の内容とは裏腹に、ミラベルがあきれるほど饒舌に語りまくることからもわかるのだが、この映画では、「見た」だけでは十分ではなく、見られたことは語りによって説明されなければならない。
一つ目と四つ目のエピソードが、「見ること(経験すること・沈黙)」と「語ること(説明し、解釈すること)」との交換が主題であるとすれば、二つ目と三つ目のエピソードは、小銭がない(紙幣がくずれない)ことによって、正当な交換が成立しない、という話だ。そしてここには、正当な交換のほかに、贈与があり、窃盗があり、詐取がある。つまり、一方で適切な説明や解釈があるが、他方では適切でない説明や解釈があるのと同様に、一方で適切な交換があり、他方で適切でない交換がある。ここでは、貨幣と言語とがアナロジー的な関係にあると言える。そして、適切な交換がなされるためには、紙幣が硬貨へと正しく変換(交換・翻訳)されなければならない(しかし、それはとても困難なことなのだ)。
三つ目のエピソードでは、ミラベルとレネットの間で、何が適切な交換、贈与であり、何が適切でない交換、贈与であるかの意見が分かれ、議論することになる。そしてレネットは実際に、電車に乗り遅れた駅で、適切な交換と適切でない交換の間を揺れ動くことになる。
「沈黙(経験)」と「言語(説明・解釈)」との交換があり、貨幣の正しい/正しくない交換がある、という主題で進んできた一つ目から三つ目のエピソードを受けて、それらの主題が四つ目のエピソードになだれ込む。
まず、レネットにお金がなく、家賃を払えないという事態がある。次いで、レネットが、「絵を観るのに言葉はいらない」ということを、過剰な言葉を用いて饒舌に語ってミラベルをあきれさせるという出来事が起こる。これはどちらも、均衡を欠いた正しくない交換にかんすることだ。そこでレネットは、明日一日は、言葉を一言も発することなく過ごすという約束をミラベルに対してする。過剰な沈黙によって過剰な饒舌を埋め合わせようとする。
(追記。一つ目のエピソードにある静寂=青の時間が、田舎における自然の沈黙であるとすれば、四つめのエピソードの沈黙は、パリ=都市における人工的な沈黙だと言える。)
一方、レネットの描いた絵を画廊のオーナーが興味をもつだろうという話がある。もし絵が売れれば、レネットは家賃を支払うことが出来、家賃についても正当な交換へと復帰できる。しかし、画廊のオーナーとの約束をとりつけた「明日」は、言葉を一言も発さないと約束したその日だ。
画廊のオーナーの前でレネットは一言も喋らないが、その沈黙を埋め合わせるかのように、オーナーが一方的にまくし立てる。沈黙するレネットに対して、オーナーは彼女を解釈する。オーナーの過剰な解釈に対し、レネットは態度でイエス・ノーを示す。ここでは、沈黙と饒舌の間に一種の均衡が(つまり交換が)成り立っているかのように見える。
しかし交渉はうまくいかない。オーナーは、絵を預かって画廊で二千フランで売る、売れた場合、取り分は半分ずつだ、とする。この提案は、常識的だしフェアなものだと言える。しかしレネットは家賃のために今、ここで現金が欲しい。双方の利害は一致せず、交換は成り立たない。しかしここで「交換が成り立たない」ことは、正しい交換の規則に従って起きた出来事(正しい非交換)だ。
ここでミラベルが出てくる。今度は、ミラベルが一方的に喋って、オーナーは沈黙する。しかしこれは単純な逆転ではない。オーナーの饒舌は、沈黙するレネットを解釈するための正当な饒舌だった。しかしミラベルの饒舌は、オーナーに喋らせないため(喋る機会を与えないための)の、オーナーの沈黙を強いる饒舌だ。これにより、オーナーに絵と交換で即金で二千フランを支払わせることに成功する。だがこれは正当な交換ではなく、あきらかな詐取である(レネットを聾唖者だと偽ってもいる)。二人は、家賃を支払うという正当な交換のために、正当でない交換を実行するのだ。
だが映画は、ミラベルとレネットの成功という「正しくない交換」では終わらない。オーナーは、レネットの絵に興味をもった客に、四千フランという(予定の倍の)値を提示する。もし売れるのならば、取り分は半分ずつという「正当な交換の権利」を、オーナーは取り戻すことが出来る。
(客が、絵を気に入って、値段に納得して買うならば、オーナーと客との間の交換も、正当なものと考えていいだろう。)