2022/09/23

●昨日からのつづき。引用、メモ。『世界は時間でできている』(平井靖史)、第六章「創造する知性---経糸の時間と横糸の時間」より。イメージと想起に関して。

●イメージ(1) イメージは自明ではない

《目をひらけば目の前に様々な事物が、色や形、テクスチャを備えた「イメージ」として現れる。この当たり前は、生物知覚一般にとって決して当たり前ではない。対象を弁別して、その場で適切な行動を繰り出すためだけならば、このように内的イメージを描写するというプロセスは、端的にコストの無駄だからである。》

《(「注意的再認」において)(…)対象が「何であるのか」の「同定」を果たした上で、さらに、実際に「非観察領域」(現象面)への「イメージ描出」が実装される(…)。そこで利用される「イメージ」はどのようにして作られるのか。》

●イメージ(2) 身体(運動記憶)は、知覚(外界)に対しても記憶(純粋記憶)に対しても等しく「選別する」という働きをもつ/イメージ(タイプ的イメージ)の起源は身体である

《身体に備わる運動記憶が、知覚を定義するという鏡映説については、5章で詳しく見た。何を知覚するかの「選別」、そしてどう分類するかの「タイプ化」は、システムの「中心」となる身体がどのような運動記憶のセットを備えているかを反映する。できあがった水路の地形そのものによって非プロセス的な仕方で外部の一群の物理状態は「重ね合わされ」、行動によって意味づけられた一つの「類似」、つまりタイプ的知覚を形作る。これが「一般概念」の生物学的起源であることも指摘しておいた。》

《同じ仕組みがターゲットを外界から記憶に切り替えることで得られるのが私たちの一般観念、タイプ的イメージに他ならない。ベルクソンは、経験の「重ね合わせ」に基づくこうした概念と、「抽象」に基づく概念とを区別している。》

《例えば、「ラーメン」について、「哲学」について、「フランス」について、人はそれぞれ一定のイメージというものを持っている。これは、あくまで個人的経験に基づいた一般概念・意味であって、公共の辞書に記載されている中立的な定義に必ずしも一致するものではない。そのため、中立的な響きのある「一般観念」より「タイプ的イメージ」と呼んでいる。》

《(…)この「重ね合わせ」は、5章で見た通り、感覚質や人格における「凝縮」と、重要な点で異なる。凝縮は全て時間的に連続した一時期の凝縮であった。それに対して、重ね合わせの場合には、素材がタイプ的に選別されて折り畳まれている。ここに運動記憶が関わっているわけだ。そして現に、注意的再認で投射に用いられるイメージは、運動図式が説別すると説明されていた。》

《(…)『物質と記憶』でも、「身体の役割」は、知覚に対しても記憶に対しても、等しく「選別」であるとされていた。》

《私たちの身体---これは運動記憶の集合体だ---は、物質世界のなかから有用な知覚を絞り込み、記憶全体のなかから有用な記憶を絞り込む。その点で、外界と過去に対して、対称的な役割を果たしているといえる。(…)第一に、運動記憶によるタイプ化は、知覚と記憶の双方に有用なものの選別・絞り込みという同じ役割をしていること。第二に、選別の元となる全体については、知覚の場合は階層1の物質である一方、記憶の場合は階層3が含む無数の体験質(純粋記憶)であること(…)。第三に、鏡映は出来上がった水路の効果であるため、再認で用いられるタイプ的イメージもまたタイプ的知覚と同様、非プロセス的に切り出されるものであること(…)。》

●イメージ(3) 選別、タイプ化は「中和」による

《そればかりではない。(…)記憶の選別とタイプ化が、「中和」によって、しかも運動記憶と自発的記憶の二つの記憶の掛け合わせによる「中和」によって説明されているのである。》

《(『時間観念の歴史』からの引用)(…)心理的な生の特定の部分だけが私に現れるという事態が生じているのは、二つの全体的記憶力が組み合わさった作用によって(…)、殆どすべてが消え去りいくつかのごくわずかな部分だけが現れるからなのです。そこにはより単純な要素の複合、ほとんどすべての中和(…)があり、その結果、有用な部分、効力を持つ部分だけが現れるのです。》

●イメージ(4) トークン的な「記憶」は、運動記憶による「重ね合わせ」によって(脱個人化・凡庸化して)タイプ的イメージとなる

《階層3に保存される体験の記憶は、凝縮されつつも識別可能性を維持している。つまり、そのままではトークン的であり、タイプ的ではない。》

ベルクソンは、私たちが想像や夢で用いるイメージは、こうしたトークン的な記憶を加工して作られると考えている。その際に、個別的特徴の「丸め込み」が必要となる。》

《(『時間観念の歴史』からの引用)単なるは記憶は混ざり合い、大量の類似した、しかし個人的な記憶が、互いに重なり合い、互いに干渉し合うことで、脱個人化して没個人的な記憶になります。》

《私たちは、3章で、凝縮の「内容成分」と「ニュアンス成分」を区別した。前者は、凝縮が含む諸項自体の質成分であり、後者は「実現された関係構造」に基づく質成分である。それゆえ重ね合わせにおける凡庸化はこれら二つの成分それぞれを「平均化」する。つまりイメージはただ内容的に凡庸化するだけでなく、「いつ・どこ」の特定性も失うことになる。こうして、純粋記憶を素材に、タイプ的イメージは構成される。》

《(…)想像、想起、夢などのイメージ能力において汎用アイテムとして用いられるこれらのイメージが、元を辿ればすべてトークン的な体験でできていることが、私たちの探索的で創造的な知性の基礎条件をなしている。中和はいつでも脱中和されることができ、一つのタイプはそれが擁する数多の識別可能性をいくらでも展開させる用意があるからである。》

●想起・エピソード想起(1) 過去はそのままの姿で保存されるのではない

《(…)ベルクソンは過去が「そのままの姿で」(=変形なしに)保存されるとは述べていない。維持されるのは識別可能性---他のどの体験とも違うあのときのライブ---であり、構造は、保存される際に凝縮を被る。従来は現働的な知覚と潜在的な記憶という対比を用いて解釈されてきた論点ではあるが、私はこれに「識別可能性空間の変形」というモデルを与えた。(…)その保存はオリジナルの体験に伴う「実現された構造」を質次元に繰り込むことで果たされている。》

●想起・エピソード想起(2) 想起のプロセス(七つの特徴)

《(ア)(…)一体「何が」問題なのかも分かっていない状態であるが、(…)「それ」に関連する記憶が自分のなかにあることを察知している。「ナンダッケコレ」感(…)。》

《(イ)(…)想起に先んじていわば「想起の見積もり」を取っている作業(…)「エピソード的既知感(…)」(…)。》

《(一)(…)「現在の相互作用から離脱する」という一種の態度変更(…)。》

《(二)記憶全域から、特定の領域へと手探りで絞り込む。》

《(三)想起イメージの現実化。》

《(ウ)(…)イメージの現実化を進めていっても途上で頓挫する場合がある。「咽まででかかっている」(…)現象(…)。》

《(エ)想起してみた結果を、自分で照合できる。(…)間違いは分かるが正解はわからない。「コレジャナイ感」(…)。》

《(…)リストを眺めれば、記憶はずっと「不可視なままそこに居合わせて(…)」(…)いる、という非常に特殊なあり方を示すことがわかる。そこで、私たちとしては、記憶のこのような特殊な振る舞いを総称するのに、「潜伏的介入」を用いることにしよう。》

《(…)現実化された想起イメージとは、知覚における流れ体験同様、〈構造と現象質の双方をそなえた未完了的あり方〉における記憶、つまりは過去の出来事をありありと再体験している状態の記憶のことを指す。私たちが想起体験に特有なものとして味わうあの「思い出しているという感じ(想起感)」としての過去性は、このフェーズに由来する。」》

●想起・エピソード想起(3) ステップ(一)「現在からの離脱」について

《(…)ベルクソンは、記憶へのアクセスが生命にとって諸刃の剣であることを至る所で強調している。(…)生命現象とは、本来的には環境との相互作用を基盤とするものであり、そこに帰着することのない「夢想」に耽ることは、そうした「世界への接地」を危機に晒すものとなりうる。記憶の切符は心の病に通じている。》

《(…)ベルクソンでは、「生への注意(…)」がこの門番の役目を果たし、覚醒中の記憶へのアクセス権限を握っている。逆に、身体の「感覚-運動的平衡」(…)が崩れることで、生への注意が「弛緩(…)」すると、記憶は制御を失い、放埓な発現が引き起こされる。睡眠時の夢や、空想、走馬灯、デジャヴュ、さらには統合失調症における幻覚(…)もまた、こうした条件から説明される。》

《(注意的再認とは異なり「エピソード想起」は)「似たような出来事」ではなく、「一回だけ起きたあの特定の出来事」を再現するという、極度に有用性の限られた操作である。そうした操作は、本来は「覚醒」の裏であるところの「弛緩」を(目覚めていながら)意図的に発動させるという、いわば自然の裏をかく極めてトリッキーな技能なのである(…)。》

《想起の第一ステップ「現在からの離脱」はそれを示している。弛緩は、それまで緊縮していた記憶の自然な「膨張(…)」を引き起こす(…)。想起とは、通常は気が散ったり集中力が切れたりしたときに意図せず起こってしまう弛緩・膨張を、意図の制御化で、つまりわざと引き起こすことである。》

《(…)そうした弛緩状態に記憶全体を持ち込んで初めて、そのなかから有用な記憶を絞り込み、選択的に現実化するということも可能になるというわけである。》

《(…)MTS解釈では、これを、階層1と階層2のあいだにあった時間的内部が階層2と階層3のあいだに移行することとして解釈できる。》

《記憶探索のターゲット(目的のトークン的記憶=体験質)は、現在においては潰れているこの人格質のなかにある。ただし、階層2と階層3のスケールギャップ(=記憶の数)は八-一〇桁ほどもある。私たちの限られた識別可能性リソースを、現在を維持したまま記憶探索に割くことはできない。「現在の手を止める」ことは、階層1と階層2のあいだの時間的内部を閉じる方向に働く。意識が上の階層に移行すれば、身体が環境との間でなしうることは自動的・機械的な所作でしかなくなる。(…)現在の「律速」を解く---文字通り「リズム」を変える---ことで、記憶に臨む体制が整えられると想定される。》

●想起・エピソード想起(4) ステップ(二)「手探りの絞り込み」/記憶は全体が連帯して動く

《(…)これは記憶の「方向づけ(…)」、「自転運動(…)」といった言葉で説明されている。「これによって記憶力は現在の状況へと方向づけられ(…)、いちばん役に立つ側面をそこへさし向ける」(…)。(…)「自転」に含まれる「回転(…)」という言葉は、続く第三ステップの「並進(…)」と対になる、(化学や数学などでも用いられる)一般的な用語である。並進とは、ひとまとまりの全体が位置移動することを意味するのに対して、回転とは、全体のなかでの諸要素の相対的な変転を意味する。》

ベルクソンは、記憶は常に全体が連帯して動くと考えているので、有用な部分だけが意識にあらわれる場合でも、それは記憶全体から文字通り「切り離される」わけではなく、あくまでも「前景化」しているだけ(残りが背景に回り込んでいる)と考えている。これが回転に相当する(…)。》

《(…)私たちは想起のたびに、様々な基準のもとで、諸記憶をリアルタイムで編成し、そこから適切な粒度で記憶を取り出してくると主張している。逆円錐図の各断面は、それぞれ別な仕方で---別なタイプ化・時間割り・粒度で---編成された記憶全体を表している。》

●想起・エピソード想起(5) ステップ(二)「手探りの絞り込み」/類似=内容と、近接=時間の掛け合わせ

《(…)内容に基づく記憶探索の場合(類似連合)には、脳側がとる状態をキーにすることで、関連する記憶(内容成分)が鏡映を介してタイプ的に選別される。例えばいつかのカレーランチを思い出したければ、カレーランチ時の脳状態がその絞り込みキーとして役に立つ。(…)日々繰り返し用いる概念であれば、水路はしっかり掘られているためタイプ的イメージの切り出しは非プロセス的に果たされるが(…)、エピソード想起の場合には事情が異なる。最終的な想起対象がタイプではなくトークンだからである。(…)そこでどうしても「プロセス」(の時間)が必要になる。それが続く「現実化」の過程である。》

《時期に基づく記憶探索の場合(近接連合)には、頼りにするのは記憶のニュアンス成分、「時間的色合い」である。そして、内容と時期の二つの基準は多くの場合組み合わさって現れるだろう。「去年ごろに」「田中氏と」「夜に」食べた「カレー」といった具合である。適切なタイプ化のキーと時間的色合いの掛け合わせによって、目的の記憶を囲い込む(前景化するように回転させる)。》

(つづく)