2022/09/22

●引用、メモ。『世界は時間でできている』(平井靖史)、第六章「創造する知性---経糸の時間と横糸の時間」より。今日は「意識」についての部分。

●意識とは

《「意識」とは言わずと知れた多義語である。そこで、それらの意味を簡単に以下のように整理しておこう。(…)赤という色クオリアや、ドンという音クオリアが狭義の「感覚クオリア」である。他方で、イメージや概念などの高次の心的要素を含む主観の領域全体が備える現象的なあり方を広義のクオリアとした。本書では、狭義を「感覚質」、広義を「心」または「人格」と表記してきた。さしあたり「意識」という語についても、同じくこの二つを下限と上限として設定しよう。》

《一般的用法においては、その他にも、「意識」の語には以下のような様々な意味の広がりがある。現在の経験全体のなかで、特定の一部が顕著なものとして浮かび上がる「気づき」。お目当てのお店を探している場合のようにこちらから特定の一部を浮かび上がらせる「注意」。睡眠や昏睡ではなく「覚醒」していること。自らの心的状態についての「メタ認知」。能動的自発行為を起動する「意思」。自分のなした行動の説明原理としての「意図」など。》

ベルクソンの概念マップのなかでは、2章でフィーチャーした「流れ意識」(持続)が中心的位置を占める。これは、現在の窓に対応し、未完了相、つまりは進行形で体験していることのライブ感という、この階層固有の時間特性に起因する意識であると説明した。感覚質はその構成的単位をなし、想起されていない記憶は人格質として現在の場を背景的に修飾する。気づきや注意は注意的再認論に組み込まれており、同じく流れの場で展開されている。》

《(…)クオリアや意識といったものを、ちゃんと自然現象の仲間にカウントしよう。これがベルクソンの「拡張された自然主義の戦略である(…)。》

●意識の遅延テーゼ

《(…)ベルクソンが着目したのが時間スケールだった。(…)一種のスケールメリットの産物として心を説明する。〈意識は、相互作用の遅延=時間スケールの拡張からもたらされる〉---これがベルクソンの意識の遅延テーゼである。》

《(…)一日一〇〇〇円を使い切るというルールのもとでは、五万円の商品は永遠に買えない---魔法でも使わない限り。ところが、三か月で九万円を使い切るというルールなら、五万円の商品は買える。一日一〇〇〇円でも三か月九万円でも収支のトータルは同じである。後者がどこかでお金を無から湧き出させたわけではない。(…)ただ、時間を使ったのである。》

《(…)物質は、時間に対して微分的に振る舞う(原因にほんの僅かでも変化があればそれに応じて結果も直ちに変化する)という意味で、この宇宙の時間の下限を定義している。》

《(…)例えば私たち人間の視覚にとっては二〇ミリ秒が下限の「瞬間」である。(…)つまり、物質にしてみればとっくの昔に過去になっていたようなものを捨て去ることなく搔き集めることで、私たちの「一瞬」はできている。意識をつくる素材とは、それら物質の大量の過去のことである。これを元手(素材)として、識別可能性空間の変形(という調理法)が質(クオリア)をもたらす。》

●意識の減算テーゼ

《(…)同じことを、運動記憶の観点から見直してみる。》

《「意識の減算テーゼ」がそれである。ベルクソンは、「物質そのものと、われわれが物質についてもつ意識的知覚との間にある隔たり」は「減少の道」(…)で乗り越えられると述べている。》

《(『物質と記憶』から引用…)知覚とは、その物質のうちでわれわれのさまざまな欲求に関係するところだけを分離ないし「分別」することにほかならないからだ。だが、物質のこうした知覚と物質そのもののあいだにあるのは、単に程度の差異であって、本性の差異ではない。》

《意識というものは、物質について何か上乗せで追加されたものではなく、むしろそこから引き算で取り出されるものである》。

《この減算テーゼは、(…)単独では決して説明になっていない点にくれぐれも注意すべきである。》

《(…)一般に、何かのうち一部だけを隔絶させたからと言って、その隔絶させた何かが質的に変容したりしない。一〇〇匹の仔豚の群れから五匹を切り離してロッジに連れてきても、仔豚は仔豚のままだ。》

《この命題は、時間次元の観点を補わなければ、理解可能な主張にならない。空間からタダで消え去るものなどないからである。減った分は、「もう遂行し終わった」か「まだ遂行中」なだけである。つまり、時間方向に逃げている。その意味で、減算の正体は遅延なのだ。》

《三か月で九万円使うルールで五万円の商品を買う場合、一日でみると一〇〇〇円使い切っていないことになるのと同じである。》

《(物質システムにおいては)極めてミクロな時間スケールのなかで作用と反作用を繰り返す回路として宇宙を覆っている。》

《(生物システム・運動記憶という回路を通すと遅延が生じるので)一部の作用だけが開始されたのに終わっていない。反作用が閉じていない。つまり、物質の時間窓で切ると、収支の採算が取れていない状態が見かけ上成立する。「減じている」ように見えるわけだ。》

創発の脱中和モデル

《世界のなかの相互作用は、単に時間軸だけでは説明できない。一セットの作用と反作用の時間的遅延だけを見ていれば、別な相互作用との「横のつながり」が見落とされるからである。》

《したがって、減算説と遅延説の掛け合わせから得られる、より完全な描像はこうなる。物質システムは時間的に潰れた瞬間的相互作用の総体である。そこでは常に相互作用は一つの瞬間の中で中和、相殺されている。意識とは、そこから一部のローカルな相互作用が遅延することにより、この中和・相殺が解除されることの効果である、と。》

《私たち人間は、何か新しいものを生じさせようと思えば、そこにそれを「外から追加」しなければならないと、半ば自動的に考えてしまう。これ「足し算」の論理と呼ぼう。(…)ところが、人間のものづくりのロジックと、自然のそれは、実は逆向きでさえありうる。》

《自然が逆の歩み、つまり「引き算」の歩みで産出を行う例として、ベルクソンが引き合いに出すのは、---絵の具の混色ではなく---「光の混色」の事例である。ご存じの通り、無色の太陽光から青色を描き出すには、何かを付け加えるのではなく、他の波長域の光をカットするだけでいい。(…)初めの太陽光が無色であるのは「色が足りない」からではなく、むしろ「すべてが揃っている」ために互いを打ち消し合い、「中和」しあうためだ。》

ベルクソンは、まさに、物質と意識の関係をこれになぞらえて考えている。すると、こうなる。物質は、意識の素材を欠いているために意識を持たないのではない。むしろ持ちすぎて飽和している、まさにそのせいで互いに相殺され、無意識となっているわけだ。だから、無意識である物質から意識を取り出すためには、余計なものを減算できさえすればよい。》

《(…)ベルクソンがここで提案しているのは、全体が持たない性質を部分が持つという「逆・全体論」なのである。どうしてそんな逆転が可能か。時間をみているからである。》

●物質=中和された意識/中和=遅延ゼロ/遅延と時間的内部

《(『物質と記憶』からの引用)物質とは、そこで全てが均衡し、相殺し合い、中和し合っている一つの意識のようなものである。》

《(『物質と記憶』からの引用)もともと無い意識(…)と、無化された意識(…)は、どちらの意識もゼロであることに変わりない。しかし、前者のゼロが何もないことを表現しているのに対して、後者のゼロは、逆向きで同量のものが相殺し中和し合っていることを表現している。》

《(…)中和ということで実際に考えられているのは、作用が反作用によって相殺されることである。》

《(…)ベルクソンは、この中和という現象において、空間的な「相互作用のタイトな連携を、時間的な「遅延ゼロ」という相の下で捉えているのである。つまり、ある相互作用が直ちに別のそれへと遅滞なく「継続される(…)」ことを、言い換えれば「抵抗も減衰もなく通過する(…)」ことを、中和の状態と考えているのである。》

《(…)時間軸方向に遅延が入らないことが、作用と反作用が(時間的に)相殺され、打ち消され、中和しあっていると表現されているのだ。この中和・相殺によって消されているのは、ベルクソンの意味での時間、つまり持続なのである。》

ベルクソンは、中和である「通過」との対比で、一部の作用を「とどまる(…)」ようにさせると述べている(未完了相の作用が「潜在的」と呼ばれている)。システムは、一部の作用について、反作用までの時間を稼いでいる。読み取ってほしいのは、ここで、こうむった作用全体のなかから、「ただちに反作用へと継続されるもの=通過」と、「ペンディング状態に持ち込んでとどめるもの=遅延」との篩い分け・選別が、時間方向になされるという点だ。「通過していく際に引きとめ(…)たもの」(…)が意識の素材となる。なぜ「意識」か。それは、この遅延差が「時間的内部」(2章)を開くからである。》

《意識とは(…)物質だけからできている。》

●意識は消える/時間的内部は閉じられる

《(…)こうして確保された意識も、反復によって閉じる---それが運動記憶の定めだからである。どんな高度な複合運動も、マスターしてしまえば無意識の自動性に陥る。どんな運動も、それ自体反復を通じて回路形成が果たされてしまえば、上位と下位階層の縦の相互作用は終わり、その場としての時間的内部は閉じ、時間は未完了相からアオリスト相へと立ち戻るからである。これをベルクソンは、習慣は完成と共に「時間の外に出る」(…)と表現していた。》

《(…)後天的に新たな運動メカニズム(手続き型記憶)を学習・獲得する生物で考える。新しい技能を習得するために、反復練習をする。始めのうち、様々な要素的運動はギクシャクしており、遅延もバラバラで、互いの連携もうまく取れていない。このバラツキこそが、減算×遅延として最大の脱中和が発揮されている状態であるはずだ。これに対し、目的の運動が一度習得されてしまえば、「すっかり準備済みの返答があるせいで、質問が無用となる」(…)。つまり、行為は無意識化する。やる前から答えが決まっているとき、時間は創発の仕事を果たさない。》

《「物質から、まず無意識的な知覚ができ、その回路にあとから意識が宿る」のではない。意識は空間ではなく時間の、時間的内部の住人なのであり、それは形成途上の未完了相にだけ現れて完成と共に居場所を失う。こうして、意識を欠いた手続き型の知覚と記憶が、主人を失っても働き続けるロボットのようにいつまでも居残るわけである。》

●しかし、なお残る意識(アドリブ的調整と、上位階層への模索)

《(…)なぜ私たちは今なお意識を保ち続けられているのか(…)》

《二つのことが指摘できる一つ目は、事実上の制約からくる消極的な理由である。つまり、マクロには「一つの運動」と言われるものも、実地運用においては、複数のミクロな運動のアドリブ的な調整を要求する。》

《運動モジュール同士を相互に調整し、うまく折り合いをつけなければ、一つの生物としてまとまった行動はとれない。(…)さらに、環境の違いもある。同じ「逃げる」でも、状況はいつも異なるだろう。(…)様々な状況のなかで、生物は「逃げる」という「一つの行動」を繰り返す。こうしたマクロな感覚-運動経路内部の「折り合い」的調整に注目する視点を、ゴトフリー=スミスに倣って、「行動-調整観(…)」と呼ぶのは適切だろう。ベルクソンはこう述べている。「行動同士を組み合わせて複雑化させ、それらを争わせることが、囚われの身の意識にとってはおそらく、みずからを解放する唯一の可能な手段である」(…)。》

《二つ目は、より積極的な方向性である。つまり、階層構造をさらに上がることで新たな質次元を開拓するのである。限られたリソースをいつまでも基礎的な運動に費やしていては、よりマクロで複雑な運動は果たせない。「歩く」や「つま先で立つ」といった(それ自体物質に対してはすでに十分巨視的な)「運動の諸要素をすでに習慣として持っていなくては、ワルツのような複雑な運動習慣を身につけることはできない」(…)。》

《(…)私たちが意識を失わないでいられるのは、完了してしまった無意識を組織し大規模展開させることで、「時間の閉じ」を延期しえている限りにおいてなのである。》

(つづく)