●引用、メモ。『世界は時間でできている』(平井靖史)、第四章「身体とシンクロする世界」より。
●表象主義への批判(表象を介さない知覚)
《(…)表象は物自体ではない。それはどこまでも「私が推定した世界」でしかない。ひとたび現象と物自体を区別してしまうと、もう物自体への直接アクセス権は剥奪されてしまうかのようだ。》
《こうして表象的認識論は、ある不穏な帰結を連れてくる。この立場がもし正しければ、私たちが見るもの聞くもの、味わい触れるもの、語りかける人々も、実在ではなく、自分の心のプロジェクターが生み出し投影している幻影にすぎない。「観念論」と呼ばれる立場である。》
《ところが、ベルクソンは、こうした表象主義的な認識の捉え方に異議を唱える。私たちの知覚は、ちゃんと世界へと直接アクセスしている。世界と私たちを結ぶ、地続きの認識ルートがあり、それが表象を介さない知覚を実現しているというのだ。》
《ベルクソンは、物質における相互作用から話を起こす。例えばある物体を考える。(…)それは周りの様々な物体から様々な影響を受け、またそれらの影響に対して反作用を返していることだろう。ここに表象の出番はない。》
《次にその延長線上で、アメーバなど、ごく基礎的な生物を考える。(…)感覚-運動と呼び方を変えても、システムがやっているのは(多少複雑になった)作用と反作用である。》
《ここで大事なのは、ごく基礎的な生物における感覚-運動が、「機械的、物理的、化学的」な水準で行われるということだ。(…)彼の考えでは、こうした基礎的な生物では、「知覚と反応プロセス全体は、機械的衝撃に必然的運動が続くのとほとんど違わない」(…)。つまり、ここにも心理的な・内面的な表象が立ち入る隙間はない。だがこれはすでにれっきとした「知覚」である。》
《(…)ゾウリムシは突かれると繊毛をなびかせて後退する。そこで起きていることはこういうことである。接触を感知するとゾウリムシを覆う細胞膜にあるイオンチャンネルが開き、環境からかカルシウムイオンが流れ込む。外界と体液とのイオン勾配が変動することで、繊毛が逆転し、その結果ゾウリムシは「後退」する。以上だ。あっけないほど単純な電気生理のプロセスである。そこではけっして、「入力値を内部モデルに照らして外界を推定する」というような複雑な手順がとりおこなわれているわけではない。それでも、これはれっきとした知覚だ。ゾウリムシは確かに外界を知覚している。》
《(…)概念や思想や理論越しに世界を見る私たち人間も、肉で出来た生物であり、その土台部分では、表象なしの知覚によって世界に深く接地しているのだとベルクソンは指摘する。このタイプの知覚を、表象なしの運動的記憶を「手続き記憶」と呼ぶのに倣って、手続き型知覚と呼べるだろう(…)。》
●自動的再認と注意的再認
《(…)人間にも生理学的な反射があるし、単純で日常的に繰り返される振る舞いにおいては、意識に表象が現れないこともしばしば経験するだろう。ベルクソンは、家の扉が内開きか外開きか覚えていなくても、その場に立てば腕が勝手に開いてくれるという例を挙げている(…)。癖の多くも、本人は気づかない。このとき、私たちは手続き型の知覚から直ちに(意識的イメージを介することなく)対応する反応行動を発動する。このときの認識回路をベルクソンは自動的再認と名付けている(…)。そしてそれを可能にしているのが反復によってパターンを学習する運動記憶なのである。》
《(…)心的表象を用いる認識モードのことを、彼は「注意的再認」と呼んで『物質と記憶』第二章で詳しく論じている(…)。人間が意識を注いで事物を眺めたり聴取したりするのは、こちらを用いている。この認識モードにおいて、私たちは外界からわずかな特徴のみを拾い上げるだけで、そこから対象を推定し、該当する手持ちの心的イメージを投射することで、心像経験を伴うような表象認識を実現している。》
《(…)ある時点で見られるもの見られないものの選別は本能と自動的再認でまず決まっており、注意的再認は、さらにそのなかで何を見るかを選びとる段階にあたる。》
《この注意的再認自体が二段階のパートからなる点に注意してほしい。このモードにおいても、やはり手続き型の経路、つまり運動記憶が「土台」を提供している。土台と言うのは、この場合、特徴検出のパートのことを指す。それがあった上での、イメージ投射である。もし仮に、特徴検出に障害が起き、外界の特徴と大きく逸脱したイメージ投射をしてしまうとしたら、これは文字通り妄想的な幻覚になる。言い換えれば、通常時の知覚においても、私たちはよくコントロールされた幻覚を見ていて、現象的なリッチさはそうしたイメージに由来するというわけである。》
●注意的再認の二つの層
《(『物質と記憶』からの引用)私たちの判明な知覚が引き起こされるのは、向きが正反対の二つの流れ、一方は外的対象のほうに由来する求心的な流れ、もう一方はわれわれの言う「純粋記憶」を出発点とする遠心的な流れ、これら二つの流れによる。》
《前者が特徴検出のパートで、そこでは知覚領域全体をくまなく平等に処理するのではなく、対象同定に必要なだけのごくわずかな「顕著な特徴」だけを拾って認知処理を進める。すべての対象表面の細かなテクスチャまで、その都度個別に読み取って処理をするほど暇ではないのだ。その代わり、第二パートで、再利用可能な手持ちのイメージ素材から適当なものを張り付けることで、時間と手間を節約しつつ見かけのリッチさを確保している、とベルクソンは述べる。》
《注意してほしいのは、これが単に、対象を同定するのに言語的概念が使われているとか、知識や思い込みによって理解の仕方が変わる(理論負荷性)といった話ではない、という点である。ベルクソンはもっとずっと基礎的な、即物的なレベルの話をしている。》
《(『精神のエネルギー』からの引用)本当は、記憶が私たちに見たり聞いたりさせているのであり、知覚だけでは知覚に対して類似した記憶を呼び起こすことはできない。なぜなら、そのためには知覚がすでに体をなしていて、じゅうぶんに完成されていなくてはならないからである。ところが、知覚は記憶がなければじゅうぶんに知覚にならず、はっきりした形を取ることもない。記憶が知覚に入り込んでその素材の大部分を提供するのである。》
《(『物質と記憶』からの引用)滞りのない読字というのは正真正銘の推察作業であり、われわれの精神は、あちらこちらにいくつかの目立つ特徴だけを拾い集め、それらの隙間をすべてイメージで埋める。そして、これらのイメージ記憶は、紙の上に投射されて、実際に印刷される文字に取って代わり、自分の方が本当に印刷されているという錯覚をわれわれに与える。(…)》
《自動的再認だけでなく注意的再認においても、習慣(運動記憶)が認知の基盤を担っている(…)。》
《何かを知的に了解するということは、純粋に受動的には起こり得ない。自らの手で作り直したイメージを投射して、それが対象の示す枠にどれだけ正しく「合流」できたのかの程度に応じて、了解は「十全な意味(…)」をもたらしてくれるのである。》
●運動図式
《(…)ベルクソンは、最終的に結合する記憶イメージと別個に、いわば知覚と記憶を橋渡しする媒介項として、脳内に「特徴検出のパート」があるはずだと新たに予感したわけである。これが運動図式(…)だ。》
《「知的理解の前に、構造と運動への知覚がある」(…)。イメージ記憶の投射に先立って私たちの脳内では、感覚刺激によって一定の「生まれかけの反作用」[ペンディング状態の反作用]が生じ、それを互いに編成することで(…)脳は対象を特徴づける動きを内的に模倣しているという。こうした一種の運動的共感を通じて、脳は対象の特徴を抽出していく。「運動図式」は、運動記憶の枠を示す重要な概念であるので、立ち止まってよく押さえておこう。》
《まず、遅延が不可欠である点。自動的再認のようにルーチン的な反応行動の場合には、入出力は体内をあっという間に通過してしまい、脳でのまとまった停留時間(「生まれかけ」状態)がかせげないため、対象を描写するような認知ができない。(…)注意を払ってじっくり物を見られるためには、動作直行型の短い相互作用ではダメで、一定の「遅さ」、時間的厚みが必要だ。ここに〈時間的拡張〉が効いている。》
《次に、対象の完全なコピーを取るのではない点。私たちにとって感覚器官に入ってくる全ての情報が平等に重要なわけではない。(…)その文脈で、そこから読み取るべき「要点」となる情報は限られている。運動図式が「図式(…)」に過ぎないというのは、要約的・概略的という意味合いである。(…)運動図式は完成された絵画ではなく下図・素描(…)である。》
《第三に、静的なコピーを取るのではない点。「運動的(…)」と言われるのはそのためだ。ベルクソンはどうやら、脳内で対象に寄り添うように運動同調を繰り返していくなかで、特徴が自ずと浮き彫りになってくると考えていたようだ。(…)写真のようにパシャッとやるのではなく、輪郭や文字には見て取るべき「動きの節目(運動的分節(…)と呼ばれる)」というものがあって、それを「なぞる(…)」とか「辿る(…)」、「大まかな線を引く」と言われる。(…)そうやって対象の「内的編成」---対象がどういう動きから組み立てられているか---を再現するような「模倣運動」が作られていく。》
《最後に、心的イメージの検閲機能。この脳内模倣運動が、当該するイメージを選別し適切に合成するための検索キーであると同時に、それ以外のイメージを抑制する、いわばゲート、「運動性の枠(…)」(…)として機能すると言われる。》
《(…)ベルクソンは、幻覚について---のみならず睡眠時に見る夢についても---説明されるべきはイメージの発現ではなく、抑制の失敗だと訴えている。》
●意識的知覚のクオリアの豊かさは主に「記憶」から供給される。
《(…)クオリアは凝縮の仕組みでボトムアップに成立するから、初めから視野分の感覚質なら備わっている。つまり、現象面はこの段階で一定程度は備わっている。しかし、これではまったく十分ではない。意識的知覚の現象面でのリッチさにとうてい届かない。そこで、記憶に頼る。タイプ的イメージの投射である。その出所は階層3だ。3章でみたように、私たちの心は過去の現象体験を包括した凝縮体であり、そこに蓄積された無数の「現象素材」こそが、あらゆる知的創造の「原資」となる。》
●(有用性)バイアス
《(…)ベルクソンの立場では、外界の編集は二重になされている。まずは運動図式によって認知に都合よく歪曲され、次いで投射されるイメージによって上塗りされる。イメージは使いまわされるから、ヴィジョンの洗練に向かいもするが、放っておけば思い込みやバイアスは強化され、見逃されているものはますます見逃されることになる。》
《(…)認識が原則として有用性バイアスに支配されているということだ。つまりは、生物として進化してきた以上、認識は無目的に、「ただ見るために見る」というふうにはできておらず、生の有用性という指針に貫かれている。》
《自動的再認にせよ注意的再認にせよ、外界の中立的・客観的なコピーを取るように設計されていない。各生物種の生存戦略に相関的にしか、知覚は定義されないからである。有用性の支配は注意的再認におけるイメージにも及んでいる。だからこそ、哲学をするなら、あるいは科学をするなら、そうした自らのバイアスをよく認め、その裏をかく知恵が不可欠となる。》