●おしらせ。明日、3月30日(金)の東京新聞の夕刊に、美術評として、ビュールレ・コレクション展に展示されているセザンヌの「庭師ヴァリエ(老庭師)」について書いたものが掲載される予定です。
●おしらせ。noteに、「スウェットの女/ポン・ジュノにおけるペ・ドゥナの存在」を公開しました。初出は、「ユリイカ」2009年10月臨時増刊号  総特集 ペ・ドゥナ 『空気人形』を生きて、です。
https://note.mu/furuyatoshihiro/n/n4178f4ec8f7d
●『神々の沈黙』の二章まででジュリアン・ジェインズが言っていることは主に二つあって、(1)意識のない状態の、高度な一人称行為体、一人称思考体がありえる、ということと、(2)意識は、言語によって生まれ、そして特にその「比喩」の効果によって可能になる仮想的な空間性として生じている、ということだろう。そして「意識」とは、一人称行為体としての「わたし」を形作る、ごくごく小さな一部にすぎない、と。
(1)で重要なのは、一人称的であるということと、意識をもつということとが、同じではないという点だ。あるいは(2)も加えると、思考と意識とも分けられているところだろう。つまり、思考と一人称と意識とは、それぞれ別の事柄だということもできることになる(これはジュリアン・ジェインズの正確な読解を逸脱するが)。
たとえば、森は思考する、とは言えても、ある森が、一人称的な思考をもつとは言えないだろう。あるいは、大腸菌は、思考する一人称的行為体であるとは言えるが、意識をもつとまでは言えないだろう。そして、人は、一人称的に思考する、一人称的行為体であり、さらに意識ももつと言える。この世界のあらゆる過程が思考であり、この世界そのものが、無数の思考の折り重なりであると言えるとして、その中で、生物といわれるものは、その思考が一人称的な形をもつ(ある中枢をもつ)ものだといえる。さらに、人は、一人称的に思考すると同時に、それとは別に、ヴァーチャルな比喩的空間としての「意識」をもつ、ということになる(そして、それを安定的に生み出しているのが言語だ、と)。
ここで言われているのは、意識は決して、人の行動や思考、あるいは高度な理性の「主人」ではないということだ。意識は、その持ち主の「高度な思考」や「様々な行動」の「決定」を司るものでもないし、それを保証するものではない。しかし、だからと言ってそれらに対してまったく意味がないということでもない、ということだろう。意識は、仮想的な空間のなかで〈ストラクション(教示インストラクション、構築コンストラクション)〉を準備したり、整理したり、方向付けたりするのにある程度は有効だし、自動的思考(問題解決)や自動的行為に対する抑制としても機能する、と。
それと、(2)で面白いのは、精神分析について、あらたな方向から考えるきっかけとなりえるかもしれないということだろうか。これを読んでいて、『ニューロラカン』(久保田泰考)に、「もし言語がなければ統合失調症はないのだろうか」という章があることを思い出した。
(ジュリアン・ジェインズのいう「意識」の意味は、ほぼそのまま「虚構」という意味でもあると考えられるのではないかと思った。)
●ただ、ここで言われる「意識」には、いわゆる「クオリア」は含まれていないように思われる。クオリアという言い方を嫌う人がいるとすけば、それをベルクソン的な感覚といってもいい。ここで言われている意識は、ベルクソン的には知覚-行動-身体という系列の延長として捉えられたものだと言える。しかしそれとは別に、感覚=身体という系列もあるのではないか。ある「痛み」があるとき、それはつねに「わたし」と共に、「わたし」の元にある。痛みのなかにいるわたしは意識を持たざるを得ないし(「痛い」という意識を強要される)、痛み=わたしとしてあり、そのような「感覚」を引き受ける基底として、(「この身体」とともにある)ほかの誰でもない「このわたし」という意識を想定するしかないように思われる。
《(…)比喩的には、知覚が、身体の反応力を示すとすれば、感情的感覚は、身体の吸収力を示すといえる。》
《(…)身体のほうは、この危険をのがれたり、損傷を回復するための運動ができるのに対し、感覚神経の方は、分業の結果、相対的不動を保たざるをえない。ここから、痛みが生じる。この痛みは、われわれの見るところ、損傷を受けた神経要素が、事態を回復しようとする努力---感覚神経における、一種の運動衝動---にほかならない。したがって、痛みの本質は、ある種の努力、それも、むなしい努力にある。痛みは、局部的な努力であり、努力がこのように孤立していることが、この努力がむなしいことの原因である。なぜなら、身体は、すべての部分が、緊密に連携しているので、もはや、全体的な動きにしか向かなくなっているからである。また、努力が局部的であるから、痛みは、生物がさらされている危険にまったく釣り合わない。危険が致命的であるのに、痛みが軽いこともあるし、痛みが(歯痛の場合ように)耐えがたくても、危険は、とるに足らない場合もある。したがって、痛みが生じる特定の瞬間があるし、また、なければならない。それは、身体のその部分が、刺激を受け入れないで、これを突き返すときである。したがってまた、知覚と、感情的感覚との違いは、たんなる度合いの違いではなく、性質の違いなのである。》
《要するに、知覚が、わたしの身体の外にあるのに対し、感情的感覚は、わたしの身体内にある。わたしが、外界の対象を知覚するのは、わたしの内においてではなく、それら対象においてであるのと同様、感情的感覚は、それが生じる場所で、すなわち、わたしの身体の、特定の場所で感じられる。(…)感覚が、内部の状態だというのは、感覚は、身体内に生じるという意味である。それゆえ、われわれは、知覚されるイマージュの全体は、われわれの身体が消滅しても、存続するのに対し、身体を消滅させれば、感覚も消滅せざるをえないと断言できるのである。》
(ベルクソン物質と記憶」第一章「身体の役割」岡部聴夫・訳)
ここでベルクソンもまた空間的な比喩を使っているが、しかし、わたしの歯が痛い時、「痛い」のは歯(という特定の場所)ではなく「わたし=意識」なのではないか。わたしの歯が痛いというより、「わたしが歯痛である」となるのではないか。そして、このような「感覚」は、ジュリアン・ジェインズが示した、「意識」の特徴のなかには含まれていない。
感覚の地としての「わたし(の身体)」において現象する、感覚の図としての「意識=痛み(クオリア)」というものがあると思われるのだけど、それまでもが、言語による比喩の効果へと還元できるのだろうかという疑問はある。
●いや、ちがうか。世界における様々な過程を、思考>一人称的行為(中枢化された行為-思考)>意識、とするとすれば、クオリア(感覚)は、意識のレベルにあるのではなく、一人称的行為体のレベルにあると考えられるということか。感覚は、一人称(意識化されないが中枢化された行為、素朴に考えれば神経系)という地の上に生じるなにがしかの図(行為へと反射されず身体自身へと吸収される知覚)であるが、それは、言語(比喩)によって生まれる意識という図とは別のレベルで生じている図だと言える、ということになるのか。ならば、一人称であるが意識はもたない大腸菌もまた、クオリアを持つ可能性はある、ということになる。そして、だからこそ意識は決してクオリアを的確に捉えることができない、ということなのか。
(そう考えるならば、精神分析ともけっこう整合するかも。象徴界は意識の地であり、言語=比喩が生むイメージの連合が想像界。そして、クオリアはまた別の次元にある、と。意識=イメージと感覚は別物ということになる。)
ただここで、一人称的行為体をそのまま身体と考えてしまうと、たんじゅんな身体論に陥ってしまう。だからここでは、(物理的過程まで含めて「思考」だとして)多重化される思考としての世界から、一人称がどのように可能になるのか、あるいは機能しているのかという問いが問われる必要があるのか。たとえば、なぜ「わたしの脳」のなかに「わたし」は一人しかいないのか、とか。ある集団が、(意識は個々でバラバラだとしても)群として一つの一人称的行為体として振る舞うこともあり得るだろう、とか。あるいは、大腸菌を一人称的行為体とする時、その「一」とは、どのように数えられるのか(大腸菌における「個体」とは、どこで線を引けるのか)、とか。そのような時、「一」はどのように機能しているのか。
(脳と思考とに強い相関関係があるのは明らかだとして、脳があるから思考がある、思考の原因は脳である、とは限らず、この世界のあらゆる過程が思考だとすれば、思考があるから脳が生じた、脳の原因が思考である、と考えることもできる。)