●『いきものとなまものの哲学』の「他者をとりこむ〈わたし〉」の節で郡司ペギオ幸夫は、ドゥルーズの『マゾッホとサド』に言及して、サディズムとマゾヒズムとを対称的だとする常識は間違い(偽の双対図式)で、両者の間には断絶があり、通約不可能でさえあるとする。
《制度を対象化し相手に押しつける者こそがサディストであり、未規定な制度のなかで、相手を鞭打つ者へと訓育し、ここに教える・学ぶ関係を取り結ぶ者こそがマゾヒストというわけだ。サディストは(…)自らの設計し制御する制度を相手に押しつけ、自らその制度の外部には一歩たりとも出ない。(…)対してマゾヒストは、制度の否認から出発して宙吊りへと向かう。マゾヒストは、自らを鞭打つ者を、命令によって形作ることができない。それができるのはサディストだけだ。だからマゾヒストは、すべてを受動的足らんと構想し、自らが受動者であることを担保したままで訓育を実行する。(…)サディストによって、マゾヒストの企みは破綻する。マゾヒストは「痛めつけてくれ」と頼み、サディストは「ごめんこうむる」とこれを退ける。》
《サディスト、マゾヒストのモデルは、一般の現象に敷衍できる。サディストは、双対図式=制度そのものであり、制度に則って記述する者である。記述の本質は、対象化・個物化にある。それは対象外部を否定し、黒く塗り潰すことで図地分離を実現することである。だから記述すること、認識すること、もっというなら知覚することは、対象化の完了=否定という意味でサディストの責務となる。》
《マゾヒストは、制度(双対図式)の無根拠性を暴露し、宙吊りにし、双対図式の拡大によって無限大の底を構想する。それは、記述の否認であり、解釈の多義性を呼び起こし、知覚の対象であった表象の解釈を多義的に横断していく、感覚である。》
●と、まあ、ここまではよく聞くポストモダン的なお話ではある。付け加えれば、次の次の節「いま・ここにいる〈わたし〉」で、双対図式=制度について次のように説明されている。
《思考は、常に、主体・客体、表象、指示対象、社会・個人のような双対図式に陥っていく。双対図式を構成する二つの要素(…)は、定義上、二元論的対立を意味するものではない。わたしが「少しばかり苦いコーヒー」といえば、それによって指示される苦いコーヒーがあるに相違なく、「甘みが深いコーヒー」といえば、その指示対象であるコーヒーが実在する。このように、一方を規定すると他方が自動的に規定される対応関係が、双対図式だ。わたしの言葉と、指示対象とが一対一で対応しているなら、改めて両者を考えることもない。いずれか一方を考えるだけで十分だ。だから双対図式において二つの要素は、結果的に排他的になる。》
●このように、双対図式としての対称性をもたず、本来的に通訳不可能であるはずの(原初的)サディズムと(原初的)マゾヒズムとの両者が、一つの「脳」の内にあって、その間に生じるの「交流のできなさ」から、「意識(SoA=わたしが動かそうと思うことによって、わたしの身体を操作したという感覚)」を説明するモデルを考えようとする。この「ひねり」が郡司的てある。サディストの制度内にあってサディストによって否定されるという形であらわれる「他者」と、マゾヒスとによって見いだされる、制度の底を破り、その底の無さそのものを示すものとしての「他者」という、根本的に異なる他者が二重化され、無理矢理に重ね合わせられることで、主体の消失→主体としての他者の捜索(犯人探し)→他者(犯人)の不在という過程を経ることで、逆説的に「わたしによる操作感」が生成される、と。
《括弧つきの他者、括弧つきの世界と向き合い、それらを否定するわたし(サディスト)は、自らを、運動(行動)の駆動者であると、疑いなく確信するような、そういった身分に位置づけられる。ただし、その確信は、実質を持たないはずだ。ここでの「わたし」は、世界の中心にいて、世界を操作し、否定し、知覚する者ではあるが、実体を持たない。それは、抽象的な点であり、大きさを持たず、身体を持たない。だからこそ、自らの運動(行動)の起点になることはあっても、起点となる「或るもの」とは成り得ない。実体のない風が、風鈴を揺らしても、揺らしたという自覚がないことと同じである。》
《この場合、あなたは常に自分が原因であることを自明だと信じるがゆえに、自分が原因であることに気づく必要がない(し、できない)。行為主体という概念は、自分ではないものによる操作だからこそ、逆説的に発見されるのである。》
《このサディストとしてのわたしは、しかし、脳の準備電位を発動するような部位、すなわち脳内他者であるマゾヒストの存在---わたしでない何かが、この運動を操作していたのだと思わせる存在---を知ってしまう。おそらく、マゾヒストとしてのわたしは、サディストから見て常に思いがけない形で発見される。それは場所も大きさもいつも同じように発見されることはなく、かつ一つに定まることもない。むしろ、脳内に偏在する何かとして発見される。だからこそ、それはサディストから見て他者であり得るわけだ。ただしマゾヒストは、その都度、具体的に発見され、サディストではない他者による操作の発見が現実化する。》
《しかし、他者として発見されたマゾヒストは、決して他の誰かとして特定されることがない。脳内他者であるマゾヒストは、サディストのわたしではない誰かというだけで、いわば操作に関する真の犯人(真の駆動者)探しの契機を与える。こうして継起する真の駆動者探しは、しかし決して終わらない。脳の中をいくら探してみても、サディストであるわたしと真に区別される他者など、存在しないからだ。果たして、いわば犯人探しが終わらないことをもって、他者の不在が発見される。(…)こうして、他者の不在が発見され、逆説的に、わたしによる操作感=SoAが生成される。どこにも発見できない操作主体としての他者が、翻って、わたしによる操作という感覚を開設する。》
●そして、このような(とりあえず「脳内」の過程として描かれた)メカニズムこそが、(個別化された)わたしと他者とが相対する時の意識のモデルでもあるとする。ここで「わたしの内に組み込まれた他者」は、「わたしの能動性」の(隠された)根拠であるのと同時に、「社会的主体」を構成する根拠でもあることになる。
《自分がしているのだという自発性の自覚は、徹底した他者によって実現される。(…)もっと言うなら、外界との相互作用によって外部との境界を形成し、外部と物質的やりとりを繰り返す物質も、外部と接し、その一部を指定して個物化する(特定の物質を取り出す)。これらは、個物化---否定すること---という意味で、外部を知覚する原初的サディストなのだ。しかし、ここにマゾヒストは見当たらない。自らの外部知覚が、徹底した外部知覚になるよう、外-内関係という制度を宙吊りにする。そのための装置を、自らの内部に組み込む。これこそが、知覚される他者を感覚する(=知覚を多義的解釈の中に横断させる)ために、徹底した他者(原初的マゾヒスト)を自らの内部に飼い慣らすことである。組み込まれた他者によって初めて、生命体は、社会性を持ち、知覚するのみならず感覚し、自発性に関する自覚を持つ。原初的マゾヒストは、社会的主体を構成する中心概念である。》
●このひねった理屈(原初的マゾヒストとしての---サディストのそれとは異質な---「組み込まれた他者」)を通過することによって、一昨日の日記に書いた(『福岡伸一、西田哲学を読む』に書かれた)、《年輪は環境に包まれつつ環境を包み、かつ(同時に)環境は年輪を包みつつ年輪に包まれる》ということや、「形成と表出」が、「分解と合成」と同様の「逆限定」といえるのだということを、ただ感覚的に腑に落ちるだけではなく、理屈として、もっと高い解像度へ進めるための足がかりとなるのではないかという気がする。