分析哲学系のフィクション論を読んでいる時の腑に落ちない感じというか、なぜそれが問題なのか分からないという感じがいつもあったのだが、『論理パラドクス』(三浦俊彦)を読んでいて、ああ、そういうことなのかと腑に落ちたような気がした(この「腑に落ち方」が正しいかどうかは分からない)。
古典的な論理学の基本原則(公理)の一つとして矛盾律というものがある。「いかなる命題Pに関しても、『P』か『Pではない』かのどちらか一方は偽である」というものだ。だが、次のような命題ではどうか。「シャーロックホームズはイギリス人である」。物語の内容から考えれば、シャーロックホームズはイギリス人であると言えるので「P」が「真」である。しかし一方、これまでイギリス人だった人をすべて調べても、そのなかに虚構の人物であるシャーロックホームズはいないので「Pではない」も「真」である。「P」も「Pでない」もどちらも真である。この「矛盾律破り」についてどう考えればよいのか。
(同様に、排中律破りとして、「現在の日本の大統領は禿である」などがある。「現在の日本」には「大統領」がいないので、「P」も「Pではない」もどちらも「偽」となる。)
おそらく、分析系のフィクション論というのは、古典的な論理学の体系において(体系が破綻しないためには)「フィクション」をどのように取り扱えばいいのか、という問題設定に出自があり、そこから発展したのではないか(ちゃんと調べたわけではないが)。二十世紀初頭の数学の体系においてラッセルのパラドクスが大きな問題であったように、古典的な論理学の体系において「フィクションの位置付け」は大きな問題であった、ということではないか。論理学という大きな体系が前提としてあった上で、そこで発生する「問題」の一つとしてフィクションの位置付けがある、と。
(『論理パラドクス』では「フィクションの矛盾律破り」について、存在論的戦略、様相的戦略、構文的戦略、という三つの解決法が示されている。)
だから、はじめから「人間にとってフィクションは何故(どのようなあり様として)必要なのか」というようなことは問題になっていないのだろう。あるいは、「人間にとって現実はフィクションによって構成されている」とか。そういうことが問題であると考えるならば、別口を当たらなければいけないのだろう。
(はじめからそういうものだと思って読めば、いろいろと得るところはあるだろうとも思う。)
そしておそらく、そこを問題としたいのならば、精神分析に当たる必要があるのだろうと思う。そこで必要なのは、ラカンというより、クライン、ビオン、ウィニコットというラインなのではないか。
●ただそこで、例えば「逆転移」という出来事の評価についての、ラカン派とクライン派との対立があり(というか、そこに両者の根本的な相容れなさの露呈があり)、この時、そのどちら側に立つか、ではなく、この対立のあり様そのものを超える枠組みが必要となり、そのためには「現代思想」への参照がきっと必要になる。
(二項による相互作用を強調することで逆転移の重要性を説くクライン派に対し、それは双対的な袋小路だとし、第三項としての「大文字の他者の語らい」の重要性を強調するラカン派――精神分析の実践では、二つの無意識が相互作用するのではなく、大文字の他者という一つの無意識のなかに二人がいるのだ――という、まあ、かなりお馴染みの対立図式が強固にあり、いろいろ足を引っ張っている気がするが、この図式を超えるのは難しい。)