●メモ。ウィニコットからフィクションを考えるための。『集中講義・精神分析(下)』(藤山直樹)から引用。
《ウィニコットは孤立というものの価値を非常に重視した人で、人間というものは最終的にどんなことがあっても一人だということを何度も書いています。一人でいるという自分、一人でいるなかで人が息づいているということを非常に強調したわけです。》
人は孤立という状態である時にこそ本質的に自分である、と。しかしこのウィニコットの「孤立」は「母」の存在、母のサポートを前提としてはじめて成立するものだ。
《乳児のニーズ……乳児はまだニードneedなんですね。願望wishや欲望desireじゃないんですよ。乳児にとってはまだ自分のニードというものに名前をつけたり誰のものかということがはっきりしないんですよ。(…)要するに最初は人間は車みたいなもので、車は壊れたときに「直してほしいな」とは思っていないんですよ。ただ直す「必要性」がそこにあるんです。だから乳児もおっぱいをもらう必要性として存在しているんだけれど、でも「おっぱいくれ」と思っているわけじゃないんです。だからそこでニードにぴたっと合わせて、必要なときに必要なものを必要なタイミングで供給することがお母さんにできれば、願望は必要ない。》
《つまりそこでは子どものニードはお母さんのニードであって区別がつかない。そのなかで子どものニードが非常に完璧に叶えられている。最早期、生後一日とか二日の話ですよ。そこが出発点で、そこでは乳児は必要なものを必要なときに必要なように手に入れられるために、こころを持つ必要がないわけです。一つのパーソンである必要はない。ただそこに静かにa going-on-beingとして存在する。(…)そこでは乳児は一人なんです。孤立isolationしている。つまりお母さんに完璧に世話されている故に乳児にとってお母さんはいない。乳児はひとりぼっちです。》
《母親‐乳児だけがいる。母親‐乳児というある種のユニットがあるというところから出発しているんだということです。つまりそこはある種の虚の空間なんですよね。自分のこころとか、何もないわけです。虚なのに、ウィニコットは、そこはすごく生きているということを強調しているんですね。つまり逆にいえば生きているということは、誰もいないで一人で、虚で、ボーッとしているところが生きているんだよ、という含みがあります。》
このイメージはすごく重要だとぼくには思われるが、それはともかく、もちろん、そのような状況が完璧に実現されることはないだろうし、長く続くこともない。
《精神分析の伝統的な考えというのは、自分の万能感を超える何かに出会って、そこで人は傷つき、抑うつ的になり、そして強くそれを壊したくなり、それを壊したんじゃないかとまたおおのき、なんていうことを繰り返して、ある種抑うつ的になり、その末にその抑うつ的なものを、万能感が傷ついた抑うつを持ちこたえているうちに現実と本当に出会えて受け入れられるんだという、そういう話ですよね。非常に厳しく現実と出会うというイメージが精神分析の基本的な発想にはあるわけです。》
特にクラインは、母‐子ユニットとしてある子どもが「外在的」な対象を見いだすまでの過程を、非常に過酷で激しく、ドロドロとしたものとして描いている。だが、ウィニコットは少し違っている。
《(…)外在的なお母さんというのがわかるまでに、中間的なエリアというものの体験が必要で、つまりそこで傷つくんじゃなくて、万能感を保持したまま現実と出会うんだと考えました。その現実が本当に自分の外から来たものだということは、片方では知りながら、しかしそれは自分がつくり出したものなんだと体験するという、非常に矛盾したパラドックスを生き続けるのです。その場所、その心的領域を可能性空間potential spaceと言い、そこで起きるできごとを移行現象transitional phenomenonといいました。》
《分離に向かう母子カップルがある。これがバチッと分かれてしまう前に第三のエリア、このあいだのエリアが乳児でもあり母親でもあるとか、外側でもあり内側でもあるとか、空想でもあり現実でもあるとか、発見されるものでもあり創造されるものでもあるというような、内側か外側かわからないようなエリアというものの体験を介して徐々に外在性へ開かれていく。》
《ここで重要なのは一人になる能力ということなんですね。移行現象を生み出すことで人間は一人になっていけるんです。一人になることができるということは、二人でいても一人でいることができるということです。誰かと二人でいて、絶えずそこに強い圧力が加わってくると、ここで壁をつくって引きこもらなきゃいけなくなる。(…)孤立というのは、お母さんが十分に機能しているがゆえに一人なんですね。ひきこもりはお母さんが機能しなくなって絶えず外的なものにさらされてしまったために、非常に被害的な世界が生まれてしまったためにひきこもるわけです。(…)孤立というのは最早期の非常に幸福な状態のことを言っているわけで、その万能感を維持したまま、つまりある意味、自分は世界の王様だという感覚を維持したまま外在性と出会うためには、移行現象、これは遊びと言ってもいいかもしれない、遊びのエリアが必要になってくるということですね。》
どうすれば子供が「外傷的」ではないやり方で「外在性(対象)」と遭遇できるのかという課題の解としてあるのが可能性空間であり移行現象である、と。ここでの「母」の機能は、第三項としての大他者や父(の名)とは違うし、かといって、想像的で癒着的な二項関係としての母-子関係とも違っている。二項から三項へと斜めにずれていく途中に母が居る感じ。
《ウィニコットはほどよい母親good enough motherということを言います。つまり環境提供を十分にしているんだけど、時折子供をほったらかして、そこで外在性にさらすような、つまりはほどよい母親。(…)よい授乳というのは子供をある意味では満足させるんだけれども、子供はそこですかされたような、何かごまかされたような気持ちを持ってしまう。だからちょっと悪い授乳があると子供はバッと足をけっとばしたりしてお母さんから手応えというものを得ると。》
《(…)悪い体験をしたときに、それをグッと抱える腕が必要だと。このことがウィニコットがholdingと言ったものですね。holdingを「抱っこ」と訳すのは私の考えでは間違いで、単にやさしく抱っこするというイメージではなく、激しく泣きわめいているやつをガッとつかんでいるとか、そういうのも含んでいるわけですよね。抱えるということですね。その事態を抱える。それは時を超えてそばにいるということに近いんです。「Being with baby over time」です。》
《(…)「本能は雷鳴のように外的だ」と書いてあるけど、自分のこころの外から本能はやってくるから、その外から来たものに対して十分にそこを持ちこたえられるある種の存在の連続性がないと子どもは本能的な体験、つまりエディプス的な体験に入っていけないんです。》
この穏やかな光景は、フロイトやラカンやクラインが描き出すものとかなり違っている。しかしこの違いはウィニコットが小児科医であり、生涯に何万という数の親‐子カップルと会っていたことと関係あるかもしれない。精神分析家のところには、基本的に問題を抱えた親子しかやってこないが、小児科医のところにはたくさんの普通の親子がやってくる、と。
そして重要なのが、ウィニコットは、この「可能性空間」は子どもだけの問題ではないとするところだ。
《さて、ここがウィニコットの発達論の肝ですが、遊びのエリアというのが、実は私たちが生きているエリアなんだとウィニコットは言うんです。大人になっても、実は私たちが「生きて」いるときには、この移行現象や遊びの体験をしている、可能性空間にいる。つまり現実と空想が豊かに交流しているという場所にこそ「生きて」いるんだと。たとえばウィニコットはこういう表現をするわけです、人がコンサートホールに行って、ベートーヴェンのシンフォニーを聴いているとき、あるいは(……)、あるいは子どもがそこで一生懸命おもちゃと遊んでいるとき、彼らはどこにいますか?という問いをするわけですね。彼らは「そこ」にいるんじゃないんです、というふうにウィニコットは言います。この可能性空間、外でも内でもない場所にいるんです、と。》
《だから精神療法というのも要するに可能性空間の体験なんですよ。ウィニコットはそういう意味で「精神療法は遊びである」と言ったわけです。患者が遊べないとすれば、遊べるまで準備する必要があるし、もしセラピストが遊べないんだったら、その人はセラピストに向いていない、というふうに書いています。》
《でも、子どもが真剣に遊んでいても「はい、ごはんよ」と言ったら、「はーい」と家に帰りますからね、多くの場合は。だからそこでパッと現実的な時間とそうじゃない時間というのは区切られているわけでしょ。それと同じように精神療法も「はい、時間です。じゃあ、お金ください」って言ったら、「はい」って払って帰ってくれるわけですよ。「ごはんよ」みたいなものです、これはね。そういうことが重要なんです。だから現実とのあいだに区切りはあるんですよ。》
《そういう、現実検討は保たれているけれども、しかし現実というものとは切り離されているというエリアで人は「生きて」いるんです。》
しかし、このような考えはクラインとは相容れない。ウィニコットはクラインと近い位置にいて、彼女の子どもの治療もして深く信頼されてもいたのだが、決別することとなった。
《クラインから言わせると、現実と空想が交流しているというウィニコットの概念化は非常におかしい。これは現実を切り離して解離しているんじゃないかと。そのなかで埋没するということは、これはフェティシズムだと。倒錯的な心性であると。つまり、物神崇拝的な、この世との関係を本当には体験していない、そういうエリアなんだと言うわけです。要するに若旦那が一生懸命、長唄をやっているのを生きていると見るか、現実から逃避していると見るかということなんです。》
《(…)移行対象は単なるフェティッシュだというふうにクライン派の一部の人は言っています。そこがクライン派とウィニコットのものすごく大きな分かれ目になっていくわけです。》