●昨日の日記の最後の方に書いたことは、ウィニコットについて考えていることに影響されている。ウィニコットは、遊ぶことや夢を見ることと、妄想することやマスターベーションすることとを分けている。欲望や快楽が強く作用し過ぎると、そこへの固着が生じてしまう。つまり、世界において、「犬」であることがたんに「犬」であることに過ぎなくなる。
遊ぶことを可能にする象徴的な領域では、意味(価値づけ)の配置が可動的であり、遊んでいるうちに配置が変わってゆくのだし、遊んでいるうちに遊ぶことの意味自体も変わってゆく。そして、遊ぶことは基本的に「一人でいることができる」ことによって可能になる。つまり、遊びは「一人でする」ことだ。
しかし、この「一人でいる」ことは、潜在的には「二人である」ことによって可能になる(潜在的「母」の機能)。だから、遊ぶことによって開かれる可動的な象徴的世界では、他者による介入がある程度は許され、受け入れられるだろう。あるいは、潜在的には、遊ぶという行為は(一人ですることでありつつ)他者が想定されている。だからこそ、精神分析が(分析家の介入が)可能になる。
(だけど、他者への指向性が強すぎると、あるいは「現実的な他者」のみが問題になると、適応的、政治的になり、現実性の度合いが強くなるので、象徴的世界の可動域が狭まり、自由度が下がってしまい、「遊ぶこと」ができなくなるだろう。)
「一人でいる」ことを可能にするために潜在的に「二人である」こと。遊ぶことは、それによって可能になる。遊ぶことは行為であるから、それによって、異なる「意味の配置」や新たな「意味」が獲得できるということそのものも重要ではあるが、「意味が可動的である世界」のなかにいることができること、「意味の可動性のなかで行為を行うことができること」の方が重要であろう。
広義のフィクション(仮想世界)は、そのような領域として機能しているのではないか。
(「象徴的な配置」が、他者たちとの共同性のなかに、より広くそしてより深く編み込まれていればいるほど、そしてその「信」の度合いが高ければ高いほど、その現実性は高まり、選択不能性(強要性)と影響力が強まり、動かし難さが増して、自由度と可動性は低まる。だがこの「動かし難さ」とは、意識的な動かし難さであって、「共同的な象徴の配置」であっても、それ自体として常に動いてはいるだろう。)
●象徴とはつまり、世界のなかの「情報」的なレベルともいえる。だから昨日書いた「象徴・想像界」は「情報界」と書き換えてもいいかもしれない。「世界は情報界、論理界、物理界の三界からできている」とした方が今っぽい。3Dプリンターによってこの三界が媒介され得る、とか。