●引用、メモ。「ラカンの≪第二の死≫ の概念について」(伊藤正博)より。とても明確に整理されていて分かりやすくて勉強になる。
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/59210/1/jk20_051.pdf
●「第二の死」とは、≪「死が起こった後になお目指されうる死」「わたしたちの苦しみの終結が位置づけられる地点」(∫?.341)として伝統的に信じられてきた死の観念である≫とされる。つまり、肉体的な死とは別の、シニフィアンに織り込まれた存在としての人の死のこと。
●「語る主体」と「わたし」の分離と、「第二の死」について。
≪以下では、語る主体(sujetdel,6nonciation)と語り出された「わたし」(sujetdel,6nonc6)とに分割されつつ、バロールを通して形成される主体から出発して話を進めよう。
ラカンによれば、わたしたちが言葉を語り終えるとき、一方で語り出された「わたし」がシニフィアンの領野に記載されるとともに、他方でシニフィアンの連鎖の担い手となった「語る主体」が無意識へと消失するといわれる。このとき主体は二つに分割されつつ形成される。ここで主体が「形成される」というのは、あらかじめ存在している主体がバロールを通して自己を表現するのではなく、バロールの結果として、遡及的に過去を書き直されて、そのつど新たな「わたし」が措定されるからである。大袈裟にいえば、これは主体の誕生である。しかし一つの主体の誕生は、一つの主体の死でもある。一つのシニフィアンは他のシニフィアンの消失した場所に現れるからである。それゆえ「シニフィアンとしての主体の消失」という意味での死は、このバロールの基本構造の中に既に含まれている。それゆえまた人間主体はその幼年期において、バロールの運動に巻き込まれるとともに、既にみずからの消失の可能性に「触れ」ている。みずからの死の可能性についてのこの経験は、のちに主体が≪第二の死≫を見いだすための前提となる。≫
≪語り出された「わたし」は、正確に言えば主体それ自身ではなく、主体を表すもの(シニフィアン)でしかない。けれども主体が形成されるのはシニフィアンへの疎外・同一化を通してでしかない。そのかぎりにおいて「わたし」は主体にとって不可欠な構成契機と見なされる。だが「わたし」への疎外・同一化は、その裏面において形成される無意識の欲望の主体にとっては、ひとつの梗桔として経験される。この経験が誘因となって、のちに主体は《第二の死》をバロールの「場」そのものからの解放と見なし、その魅力に引き寄せられることになる。≫
≪これら二つの前提的契機のうち、前者は「他者」の側から、後者は主体自身の側から、それぞれ《第二の死》の発見を準備する。≫
≪幼児が言語を習得するためには、他の人々の声の中に、分節化されたシニフィアンを聞き取らなければならない。だが他者の声をシニフィアンとして聞き取るということは、潜在的にみずからの身体によってその分節化を反復することなしには不可能である(同時に自分も語ることなしには、聞き得ない)。それゆえ幼児が他者の声をシニフィアンとして聞き取るということは、幼児の身体が他者の声=シニフィアンの秩序に従って身体自身を分節化する、ということを意味する。他者の声を聞き取るそのつど、幼児はいわば他者に憑依され、他者の立場から「語る主体」にならされるのである。この基本的な構図は、幼児がこの状況から脱け出して、自分から「語る主体」になっても保持される。自分について「○○ちゃんは‥」と語り出すとき、そのつど幼児は、自分の身体に刻み込まれた「○○ちゃんは‥」という他者の声=シニフィアンを呼び起こしている(同時に他者が語るのを聞くことなしには、語り得ない)。ここには、他者が形成したシニフィアンの連鎖に組み込まれた「○○ちゃん」を「わたし」として受け取るという側面と、みずからの身体に憑依した他者として外側から「わたし」について語るという側面とが同居している。わたしたちのバロールはこの困難を抱えて出発する。≫
大文字の他者
≪その後わたしたちはバロールを通して最初に与えられた「わたし」の諸規定を修正してゆくことになるが、しかしどれほど「わたし」に修正を加えても、他者の立場から「わたし」について語るという構図は変わらない。「わたし」の諸規定の修正は、「わたし」に諸規定を与えることのできる他者に向けた訴えであり、その他者の観点から規定されるかぎりでの「わたし」の諸規定の修正でしかないからである。このような訴え先としての他者をラカン大文字の他者(l,Autre)と呼ぶ。≫
大文字の他者は主体の成長とともに具体性を失い、そこから「わたし」が規定される「場」ないし「次元」といったものに変化して行く。いいかえれば大文字の他者は、デカルトの「欺かない神」のように、自己意識の隠れた保証人として機能するようになって行く。けれども具体性を失った後も、大文字の他者は決して主体の内なる他者性に還元されず、「わたし」が消失した後にも存続するという他者性、超越性を持ちつづける。大文字の他者が主体に対してこのような超越性を保つのは、それが他者の声=シニフィアンとして、主体の身体を支配する秩序として到来した他者だからである。この秩序の支配下に置かれるとともに、その支配領域である無際限に伸び広がったシニフィアンの連鎖の中に、「わたし」はその一環として組み込まれる。このとき、「わたし」の有限性、およびその消失の可能性が、大文字の他者の位置から「わたし」を見ている主体の視野に入ってくる。つまり主体はみずからの死の可能性に、大文字の他者の位置から「触れる」のである。≫
現実界象徴界の内へあらわれたものである「もの」と、象徴界自身の限界を示すもの(もつれ)である「第二の死」の違いと、その混同について。
≪さて、《もの≫と《第二の死》とは、いずれもシニフィアンの連鎖としての主体の有限性によって指示されるものではあるが、両者の構造論的地位はかなり異なっている。話を単純化して、象徴界現実界の上に被せられた綱に誓えると、《もの≫は綱の「ほころび」であり、《第二の死》は綱の「もつれ」であると言えるだろう。つまり《第二の死≫は象徴界の構造それ自体に内在する不整合のゆえに見いだされる「空虚」であって、象徴界の内への現実界の露呈として「空虚」ではない。ところが《もの》へと向かう欲動は、《第二の死≫を限りなく 《もの≫に近いものとして捉えてしまう。いささか神話めいた語り口になってしまうが、以下にそのことの説明を試みよう。
シニフィアンの介入によって幼児は現実界から切り離され、象徴界に投げ込まれる。このとき幼児は主体となり、失われた≪もの≫の回復を求める欲動が始動する。さしあたり主体はそれを、失われた「対象」と見なし、象徴界の秩序の下でそれを「再発見」しようとする。だが主体が象徴界に投げ込まれることそれ自体によって失われた《もの》は、彼が象徴界の秩序に服しているかぎり発見不可能である。このことに気づくと、主体は自分と《もの》とを隔てている象徴界の秩序それ自体を取り除こうとする。しかし象徴界の除去は主体自身の存立基盤の破壊を意味する。つまり象徴界を越えて《もの》に接近すると、《もの≫を求める主体自身が消失してしまう。それでは元も子もなくしてしまう――かのように一見、思われる。けれども、そもそも主体が≪もの≫に向かうのも、主体形成以前の状態の回復を求めてのことである。つまり始めから主体は主体自身の解消に向かっていたのである。このことに気づくならば、いままで象徴界への入口に戻ろうと苦労していた主体が、象徴界からの恰好の出口がいつもすぐそばにあったことに気づくまでに、それほど時間はかからない。こうして主体は、かつて大文字の他者の側からその可能性に触れたみずからの死(《第二の死》)に《もの》と同等の位置づけを与えて、今度は主体自身の側からそれを目指すことになる。≫
≪しかし通常は、主体は直接的に《第二の死》に向かうわけではない。というのも死の欲動の直接的な発現から主体を隔てる諸機制が文化的次元(大文字の他者の次元)で働く結果、欲動は、その目標に到達することはなく、目標の周囲をあたかも惑星のように回りつつ、みずからを再生産するにとどまるからである。そのような欲動の制御機制が昇葦(sublimation)である。ラカンにあっては昇華とは、想像界に属する諸要素を用いて《もの》や《第二の死》 という空虚を「植民地化」し、わたしたちを空虚から隔てる障壁となる諸「対象」を築くことであるとされる。逆にいえばそれは、表象の領域に属する諸対象を「素材」として、空虚を「対象以上のもの」として呈示する努力でもある。その代表的な例は芸術である。芸術は「対象を《もの》の尊厳へと高める」(∫?.133)ことによって、わたしたちが一定の隔たりを保って象徴界の「外」を垣間見ることを可能にする。
だが昇華の形態はそれだけではない。派生的な意味における 《第二の死≫も昇華の一形態と考えることができる。この場合、伝統的宗教は来世という想像的構築物で空虚を埋めることによって≪第二の死≫を無限遠に押しやる。来世とは、死によって中断されたシニフィアンの連鎖を完結させ、その連鎖の最終項を永遠に保存するという機能を担った神話的表象である。また啓蒙主義の社会思想は、ナルシシズム的に同型的なメンバー(分身たち)から成る社会体系を構築して、《第二の死》について全く考えないで済ませようとする。すなわち、構成員の世代交代を通して同一性を保つ社会システムと、このシステムの項として機能しているかぎりでの諸個人とだけしか、視野に入ってこないようにする。これも昇華の一形態である(Cr∫m.157)。これらの昇葦の働きを通して死の欲動がさまざまな水準の想像的対象に固着させられる結果、《第二の死》がそれら対象の背後に隠される結果、通常、死の欲動は文化的営為の推進力に転化されている。フロイト死の欲動を発見したのは、この昇撃という制御機制が機能不全に陥り、死の欲動が倒錯というもうひとつの道に向かい始めたときのことだった。≫