●一時すごく流行っていた多重人格ものの物語は今ではすっかりすたれてしまったように思うのだが(臨床的にはどうなのだろうか?)、『臨床社会学ならこう考える』(樫村愛子)のなかに、多重人格は、実は多重人格ではなく「ポストモダン的ヒステリー」ではないかという話が書いてあって、重要なことのように感じられた。それはつまり、人格の乖離は(いわゆるポストモダン的多型倒錯や並行世界論のような)超越性(抑圧)を欠いたフラットな複数への乖離ではないということ。
《東浩紀は現代の主体は「動物化」しており精神分析の枠組みを逃れているとする。東との度々の論争の中で東の「動物化」の議論に対し、ラカン派精神科医の斎藤環はこれに抵抗する。斎藤やジジェクは、一つの人格という神経症的主体から見てその外にあるとされ現在頻出している多重人格は、多重人格ではなく「ポストモダン的ヒステリー」であることを指摘している。またジュリアンも同様に、ヒステリーの現代における症状の移動について指摘する。ジュリアンによれば、ヒステリーはすでに病気ではなく、そのコンテクストの中に位置する社会関係(言説)である。同様に主体という奥行きを失っているとされる「キレる少年(少女)」も演じられていると考えることができる。》「ポストモダンにおけるメランコリーと倒錯」
《斎藤は、乖離は抑圧の変形であり、発達過程において学習によって習得される二次的防衛機制が乖離ではないかとする。彼は乖離を暴走し反復する一つのシニフィアンであると述べ、また心が獲得した想像上の身体の上に生じるヒステリー的変形であるという。心は全体から分離されて調整が可能であると錯覚され、心の身体化が起こったため、身体化された心の表象は身体と同水準におかれヒステリー的変形を被りやすくなるからである》。「ポストモダンにおけるメランコリーと倒錯」の注より。
●確かに、ここで「抑圧」とは、象徴界による抑圧の弱体化によって主体が直に対面させられる、ベタな、現実的な環境の過酷さであり劣悪さによる「抑圧」(それに強引に「適応」させられるという「同調的抑圧」)であろう。ヒステリーであり、そこに「他者」の作用はあるとはいえ、それを支える象徴界はあまりに不安定で貧しく、よってきわめて凶暴なものとしてしかあらわれず、それはじつは抑圧というより「不幸」と呼ばれるべきものなのかもしれない。
しかし、ここでは、主体が平板化しているのではなく、あたかも平板化しているかのように振る舞う(演じる)ことが(環境によって、他者-象徴的なものの貧しさによって)強制されているのだ、ということが言われている。平板であることが、演じられている。「演じる」とはつまり他者(大文字の他者)に向けた行為であり、一見、動物的反応であるかのような行為(キレる)が実は他者(超越的な存在)に向かって捧げられている。だから、それはきわめて複雑化された主体ということなのではないか。
●一見、一つの主体という強い統制から逃れる多型倒錯的なものの帰結にみえる多重人格-乖離は、実は、ヒステリー的な主体化によるものであったのではないか、ということ。例えばジジェクは、無意識を排除しようとする「倒錯」と、それとは対照的な「ヒステリー」について、わかりやすく述べている。以下は、『厄介なる主体』第五章「激しい(脱)愛着--フロイトを読むバトラー」のマクラの部分より。
《倒錯症者は、すでに自分が求めている答え(享楽をもたらすのは何者かという問題に対する解決法、〈他者〉への対応法)を知っているがゆえに、あらかじめ〈無意識〉を排除してしまうのであって、彼は自分自身の答えに疑念を抱かず、その姿勢に揺るぎはない。対照的に、ヒステリー症者は悶々と懐疑し続ける--この特徴によって明らかになるのは、彼女が際限なき疑問の投げかけに身を置いており、さらに疑問を投げかけ続けるその姿勢そのものが、彼女自身を創りあげる要素として不可欠なものになってしまっている点である。いったい〈他者〉はワタシに何を欲しているのだろうか、はたしてワタシは〈他者〉に何を欲しているのだろうか、と……。》
《倒錯症者は、公空間に浸透・支配する言説の足下を支えている秘匿された幻想を暴露し、それに具体的なかたちを設定し、行為に移す。それに比べ、ヒステリーを引き起こしている者の態度とは、厳密に言って、秘匿された倒錯的な幻想が、「本当にそのようなものか」という疑念の表明なのである。ヒステリーとは、たんに秘匿された欲望と、それを押さえ込もうとする象徴的な禁止が、互いに鬩ぎ合う状態にあるゆえの発症にすぎないものではない。それは、秘匿された欲望のささやきが約束するものが、本当に信ずるに値するものなのだろうか--享楽に手が届かぬのは、本当に象徴的な禁止によって押さえつけられていることのみが原因なのだろうか、という疑念の渦に苛まれている状態を告白する態度なのだ。》
《倒錯症的な同性愛(いったい何が〈他者〉に享楽を与えるものであるのか、それは重々承知していると嘯くマゾヒストやサディスト)の存在は、誰しもがはっきりと認めうるだろう。しかしそこには、ヒステリー症的な同性愛(「ワタシとは〈他者〉にとって何であるのか、〈他者〉は(ワタシに)何を欲しているのか」という出口の見つからない謎に正面から向き合おうとする意図の所産)も、また同様に存在しているのだ。ゆえにラカンにとって、性的な実践行為が呈示する多種多様な形態(ゲイ、レズビアン、ストレート)と、主体性にまつわる「病理的」な象徴の複合体系(倒錯症、ヒステリー症、精神病)とのあいだに直接的な関連関係は存在していない。》
《ここで愛糞症(糞便摂食)という極端な事例を取り上げてみよう。このような行為ですら、単純に「倒錯的」症状と断定できないのは、それがヒステリー症の複合体系(エコノミー)のなかにに含み記される事態もあり得るからである--つまり、そのような行為はヒステリーを誘引し、「他者」の欲望は何かを問いかける構成要素のひとつとしても機能しうるのだ。もしワタシがウンチを食べることで、〈他者〉の欲望とどのように向き合えばいいのか試そうとしたら、どうなるだろう--その光景を眼にしても、カレはワタシのことを今までと変わらず愛してくれるだろうか、それとも、ワタシを見限って嫌悪の対象と見なしてしまうだろうか、という問い賭けのように。さらにまた、その行為は精神病の症状としても機能しうる。たとえば食糞する主体が、パートナーの糞便を奇跡によってもたらされた〈神〉の聖体であると思い込み、それを口から呑み下すことによって、〈神〉に触れ、その力を受領すると信じているときのように。またあらためて言うまでもなく、それは倒錯症としても機能しうるのであり、その場合において行為の主体は、糞便を食しながらも〈他者〉が欲望する対象=手段の収まりどころを提供しようとしている(彼は自分のパートナーのなかに享楽を生みだそうとして糞便を食する)のだ。》
《より一般的なレベルに目を移しても、ひとは何か新しい現象について記述しようとするとき、そのもっとも顕著に表出しているはずのヒステリー症的因子には気にもとめず、より「過激さが根源的(ラディカル)」と評されている倒錯症的ないし精神病的な因子に引き寄せられてしまうのが常であろう。》
●倒錯症者は、言い得ることはすべて言い、見得るものは全て可視化し、言えるものと見えるものによって滑らかで穴のない世界を構成しようとする。つまり、言い間違い、失策、躓き、裂け目、出会い損ない、としてしか可視化されない「無意識」を排除し、隙間のない可視的な世界を構成する(それによって他者をハリボテにする)。ヒステリー症者は、そのような世界のありようそのものに対する根本的な懐疑(拒絶)のなかに存在する。
●ポストモダンの思想は常に、神経症やヒステリー的主体に対する倒錯的主体の優位を言い続けた、と言うことも出来る。フーコーもドゥルーズも、そして、あまり読んだことないけどおそらくデリダも、ごく「一面的(単調)」に読めば、そのようにも読める。倒錯とは、意識-象徴界によって無意識-現実界を完全に押さえ込んで、他者の位置を固定しようと(より強く言えば「飼い慣らそうと」)する主体化のあり様である。それは強い主体を要請する強い他者(抑圧)を縮減して(一見、動物化にもみえる)多型倒錯へと至る道を開くが、ミクロな諸力の絡み合いとして無意識を記述可能とする結果として(それが本意でないとしても)、神経症者がおそれつつも魅惑される、他者の顕示としての「恩寵」や「未来」(それは外傷の回帰としてのカタストロフィでもありえる)をも、事前に記述済み(想定内)のこととしてしまう。そして、世界は実際に、テクノロジーの発達と高度な資本主義によって、その言説を実現(実演)しつつあるようにもみえる。科学とテクノロジーによって無意識や現実界が完全に記述(把捉)され(例えば、「未来」がリスクという概念によって確率論的に記述可能になり)、その滑らかな記述が象徴界に取って替わるならば、つまり現実界が知によって直接操作可能なものとなれば、精神分析の出る幕はない。そこでは、世界は連続的でなめらかな記述の束へと還元され、例えば「恩寵」は完全に「幻想(遊戯)」の領域に押しやられ、科学や経済といった現実(去勢)から切り離されるかのようだ。それに対して、ヒステリーの存在を言い立てるのは、古くさい、退行的な振る舞いにみえるかもしれない。
しかし、それはごく表面的なことだ。例えばドゥルーズが『シネマ2』で、前後の脈略からすれば唐突に、「この世界そのものへの信頼」を言い出す時、あるいはフーコーが唐突にイスラム革命への支持を言い出す時、そこにある種のヒステリーを、神経症と抑圧、そして「他者」の回帰を、みいだせるのではないだろうか。
いや、そういう雑な思想史みたいなことを言いたいのではなかった。上記の引用部分でジジェクが言っているのは、一見、倒錯的、精神病的にみえるものにも、ヒステリー的な因子を見出し得るということなのだ。それはつまり、一見、平板な反応しか示さないような動物化された主体があったとしても、それはたんに「結果として」出力されるものがそうであるに過ぎないのであって、その平板なものを出力するまでの処理過程(内面のメカニズム?)は、きわめて複雑なものがあるはずた、ということなのだ。そしてそこには依然として、フラットな悟性のみでは把捉されない、他者と抑圧、超越性が作用しているはずだ、と。だとすれば(だからこそ)、それを記述する言説(文化)は平板なものであってはならないのではないか、と。
●とはいえ、倒錯とは、人間が、自分自身の知力によって(つまり去勢の徹底によって)人間であることから脱出しようとする試みであるとも言え(例えば人工知能への欲望など、倒錯の最たるものではないか)、それはそれでとても強く惹かれるものがある。倒錯的欲望の、機械のような正確で単調な反復、あるいは、自動的な進行、に対する強い「あこがれ」が(幻想として)ぼくにはある。しかし、そこにも、機械の作動ノイズとしての現実界は生じるように思われる(そもそも倒錯とは、世界を記述で押さえ込むことで、回帰する外傷-現実界-悪を無害化しようとする戦略である)。
だから、たんに倒錯に対してヒステリーの優位を言い立てようというのではない(それではたんに「モダンへ帰れ」ということになってしまう)。ただ、神経症的主体の問題を、抑圧と他者を、そう簡単に片付けることはできない、ということなのだ。一見、倒錯にみえるところに、神経症が息づいていることが見逃され、無視されると、そこに悲劇が生じるように思われる。だとすれば、依然として、世界を滑らかに記述し得るという言説に対して、亀裂や穴や欠如の存在を、そして超越的なもの(大文字の他者)の存在を、世界の記述のなかに取り戻す必要が(勿論、決して単調な形ではないものとして)あるように思われる。