●「倒錯論のアクチュアリティ」(河野一紀)は、『人はみな妄想する』(松本卓也)に欠けている「倒錯」について、ざっとおさらいしておこうというくらいの気持ちで読んでみたのだけど、そこに描かれていた「倒錯」と「科学」との相同性に関する議論は非常に興味深く、考えさせられた。
ぼく自身としては、ここに書かれた、精神分析の立場からの科学に対する批判的な態度に同調するというよりも、精神分析ディスクールと科学のディスクールという、二つの異なる言語ゲームの「相容れなさ」を目の前にして、うーんとうなってしまったという感じなのだけど。
以下、このテキストに書かれている、「倒錯」と「科学」との同型性とその差異について、ぼくが理解できた範囲で大雑把にざっくりとまとめておく(自分のためのメモ)。
●まず、「性関係はない」というラカンの公理がある。それに対する可能な応答(性関係をなんとか可能にするため幻想の論理)として「倒錯」がある。
●倒錯者は、去勢以前の「身体の享楽」を「真理」として信じ、熱望する。
(科学は、普遍的な真理を信じ、熱望する。)
●倒錯者は、自らが「他者」の享楽の道具となり、対象となるという方法によって、「他者」の位置に、真理としての「身体の享楽」を出現させようとする。
●そのような倒錯者の行為(実践)は、「真理(身体の享楽)」に到達するための探求であり、実験である。
(そのような探求は、科学的な実験に通じる)
●仮に、その実験が成功するとしても、真理が出現するのは「他者の身体」であり、倒錯者の身体ではない(倒錯者の享楽は、他者との想像的同一化に依る)。
●倒錯者の主体は、(1)自らが他者の享楽の道具になる(2)他者と想像的に同一化する、という二重の意味で消失する。
(「わたしの身体-実存」における「真理(享楽)」の回復は諦められている、とも言える。これは、「わたし」は、「わたしにとっての真理(満足、あるいは人生の意味など)」のためではなく、「他者=普遍的な真」のために、科学という連綿と続く何かのために働くのだという、科学者の態度と重なる。享楽はあくまで他者=真理の方にある。)
●故に、倒錯的主体は「他者」との関係を必要とする。
●倒錯的主体は、(1)欲望(他者と対象aとを混同すること)と、(2)愛(享楽の目指す先の「しるし」をある特定の主体=身体の上に固着させる)という二つの作用によって、ファルス的享楽と他者の身体を結びつける。これによって「性関係(他者との性的紐帯)」を可能にする。
(科学のディスクールと、「想像的なもの」「シニフィアンの連鎖による隠喩」との折り合いは悪く、科学は、他とは連鎖しない自律した一者である「文字」「数学的プロセスへの参照」によって発展することから、科学は、我々と世界との「性的紐帯」を縮滅させる。この点が「倒錯」と「科学」とを分かつ。)
(世界や他者との性的紐帯にかわって、「身体の享楽の喪失」を埋め合わせるものとして、科学は、テクノロジーの成果である、身体に直接的に作用する様々なガジェットを生み出す。ガジェットは、他者の身体の代理というより、「わたしの身体」に限りなく近づき――「わたし」を「身体」へと還元しようし――身体の自体愛的な享楽のモードをつくりだす。)
(ガジェットにおいて、対象は他者とは結び付けられず、享楽のために純粋に消費される。このような対象の消費は、享楽の欠如を埋め合わせるというよりも、むしろその欠如をいっそう賦活するのではないか。)
(「とりわけ死の欲動と呼ばれるものと、科学は結びついている」ラカン)
●倒錯者の誤謬は、「非一貫的」である他者の欠落を「不完全性」と取り違え、不完全性を補完しようと(完全化しようと)するところにある。
(科学では、最も包括的で無矛盾的な、世界に対する一貫した――統一された――説明の体系であることが目指されている。しかし、世界がそもそも非一貫的であるとしたら……)
●《倒錯が示す幻想の論理とは、去勢という真理の地点を形式的に位置づけ、予測計算(calcul)による余剰享楽の追究を通して、身体における享楽の喪失を埋め合わせようとする操作の過程である。》