●昨日の日記の補遺。倒錯者の実践における「欲望」と「愛」、社会的紐帯について。「倒錯論のアクチュアリティ」(河野一紀)の「3.欲望と愛」より(要約)。
神経症者に比べ、倒錯者はより果敢に「身体の享楽」という謎に接近する。しかしそれは、享楽に関しては「非一貫的」でしかありえない「他者の欠陥」を「不完全性」と取り違え、それを補完するという不可能な企てであることによって上手く行かない。倒錯者の目指す「身体の享楽」は不可能なユートピアであり、主体にとって享楽は、身体の外の享楽、ファルス的享楽である。
ファルスは「差し引かれたものとしての享楽のシンボル」であり、他者の身体に見いだされる不在の対象である。ファルスは、主体の身体に喪失を書き込むと同時に、身体の外に、享楽の探求を支える対象(対象a)を差し出す。対象aは、(倒錯のみではなく神経症においても)主体にとって、「身体の外に位置づけられた現存在」である。
しかしファルス的享楽では、他者の身体そのものとは関係を結べない(「性関係はない」)。ファルス的享楽はシニフィアンの享楽であり、他者の身体は、シニフィアンの次元では何も語らないから。それに対し倒錯者はどうするか。
そこに「欲望」が機能する。欲望は、他者を対象aへと縮減させること、あるいは他者そのものと対象aとを混同させることによって、主体と他者の身体を結びつけて、性関係の不在を補填する。
もう一方で「愛」が機能する。愛において目指されているのは(対象aではなく)主体である。そこにある「他者の身体」が「主体である」という「しるし」が愛であり、それが欲望を引き起こす力となる。愛をつくりだす「主体のしるし」は、連鎖し滑走するシニフィアンとは異なり、身体への固着を生じさせる。この固着=愛が、享楽に関する目印になる。
倒錯者は、「性関係の不在」に対して、上のようにして「欲望(対象aと他者の短絡)」と「愛(享楽を主体に向かわせる目印)」の合わせ技という仕方で呼応し、解決しようとする。性関係の不在に対するこのような呼応のモードを、ラカンは「倒錯」と名付けた。
つまり、倒錯とは、「余剰享楽であるa」と「去勢の担い手としての父」によって亢進する「享楽のモード」をあらわす。《息子たちが父を愛するのは、彼らが女性を剥奪さているからだ。》享楽の喪失に関する虚定点を利用しながら、様々なかたちで享楽の追求がなされる。
《ファルスというみせかけは、それが他者の身体に見出される対象aの目印になる限りにおいて、二つの身体をまとめあげる支えとなる。》故に、(倒錯的実践における間主観性が想像的同一化であるとしても)、倒錯者も他者を必要とし(カップルを形成し)、そこに社会的紐帯としてかたちづくられた症状を見出すことができる。