●最近改めてラカン派に興味がある。みんなが、社会とか政治とか、そんなことばっかり言っててつまらないと腐っている時に、『人はみな妄想する』(松本卓也)のような本が読めて、癒されるというか、元気がでる。





●以下は、『人はみな妄想する』より引用。
《(…)自閉症者がもちいる常同的・反復的なシニフィアンは、原初的な言語であるララング(=自体性愛的な享楽をまとったトラウマ的なシニフィアン)そのものを私たちに呈示していると考えられる。自閉症者は、いわばララング(S₁)というトラウマ的なシニフィアンに出会い、それ以降、言語(S₂=知)を獲得しないことを自ら選択し、ララングの場所に立ち止った子供たちである。》(363ページ)
《(…)逆方向の解釈によって取り出されるのは、他の誰とも異なる、それぞれの主体に固有の享楽のモード、すなわち、「ひとつきりの<一者>」と呼ばれる孤立した享楽のあり方である。精神病の術語をもちいれば、それは他のシニフィアンS₂から隔絶された、「ひとつきりのシニフィアンS₁」としての要素現象であり、自閉症の用語をもちいれば、それはララング(S₁)を他のシニフィアン(S₂)に連鎖させることなくララング(S₁)のまま中毒的に反復する事に相当するだろう。いずれの場合でも、そこで取り出されているのは無意味のシニフィアンであり、そこに刻まれている各主体の享楽のモードである。ミレールがいうように、現代ラカン派にとって、「症状を読む」こととは、症状の意味を聞き取る=理解することではなく、むしろ症状の無意味を読むことにほかならないのである。》(378ページ)
《(…)精神分析は「終わりなき」ものではなく、むしろ分析作業の最後に残った享楽の屑(特異性)としての症状=サントームに同一化すること、あるいはそれと「うまくやっていく」ことが最終的なラカンの分析の終結の公式となった。この意味で、サントームは私が私であることを示す、主体の真の固有名なのである。》(401ページ)
《このような新しい精神分析パラダイムは、どこか自閉症者の姿に似てはいないだろうか。(…)様々な対象や知識を自由に――しかし彼ら自身のロジックに従いながら――組み合わせ、自分なりの大他者を発明し、そのことによって他者と別の仕方でつながることを可能にする自閉症者の姿である。》(380ページ)
《あらゆる分析経験は普遍性から外れている。しかし、分析経験という根源的に特異的な経験から、それでもなお普遍性が析出してくることがある。そのとき、その分析経験は他者へと伝達可能なものとなる。その伝達、つまり特異性から普遍性への不可能な変換が可能になったことの証を示すものが、ラカン派の「パス」にほかならない。パスはしばしば非人間的なものとして批判される。しかし、特異性が、その特異性を保ったまま何らかの普遍性を開示するものにならないかぎり、芸術作品の創造も起こり得ないのではないだろうか。ラカンはAO(「アンチ・エディプス」)を承けて、「既成のディスクールに捉えられていない」ことをスキゾフレニーの本質的特徴とみなしたが、それはむしろディスクールを「自分自身で発明しなければならない」という倫理の次元を含んでいる。もし私たちがみな精神病であるなら、普遍性から外れたアウトサイダーとして、妄想あるいはサントームを「発明する」という倫理が私たちには課せられている。》(406ページ)