●『響け!ユーフォニアム』第12話。上手いなあ、作り込んでるなあ、と。本当は「内容はベタで上手いだけの作品なんて…」と皮肉の一つも言いたいのだけど、あまりに上手いので素晴らしいとしか言えない。今後おそらく、アニメに限らず、あらゆる「物語を書く(語る)」ことを教える学校で、この作品が教材として繰り返し参照されるのではないか(『ダイ・ハード』みたいに)。以下、ネタバレあり。
まず、最終回の一回前というこのタイミングで、主人公がはじめて主人公になるという回を設定するという、この構成が面白い。主人公の黄前はここまで基本として受動的で、状況に居合わせて状況を(観客に)伝える役割であり、唯一の能動的な行為は「高坂を応援する」という支援者としての役割だった。オーディションという試練はあったとしても、オーティションのエピソードは、高坂と中世古を巡る軋轢があったり、オーディションを通じて低音部の関係が近づいてゆくという出来事が主で、黄前自身の当落はそれほど大きな問題ではなかった(よほどのことが無ければ通るでしょう、と)。黄前にとっての問題はここまでずっと主に人間関係であり、黄前自身は問われていなかった。だがここではじめて「物語の当事者」となり、試練と挫折を経験する。
(高坂との関係以外の場面で、「できます」という強い主張の発言をしたのは初めてだろう。)
語り手は行為者ではなく、デタッチメントな語る人であり、しかしそういう媒介的存在が、クライマックスに至って能動的な行為者にならざるを得なくなる、という展開は、よくあると言えば実はよくある(例えば『涼宮ハルヒの憂鬱』のキョンなど)。しかし(おそらく村上春樹の語り手が参照されている)キョンが「そういう人」なのははじめから明らかだ。ここでは、多様な人物たちの関係に翻弄されてダイナミックに右往左往することで、黄前が「そういう人」であることに覆いがかけられていて、ここにきてようやく、そういえば黄前自身が問われたのははじめてだったと、改めてと気づく。そして気づいてはじめて、ここに至るまで積み上げられてきた伏線の厚みにびっくりする(黄前はここまで様々な人物に巻込まれ、引っ張られ、背中を押されて行動しており――自分から挙手しない存在――前回はじめて「高坂の背中を押す」という行為に至るのだが、黄前自身の欲望や実力を問うエピソードは周到に避けられていた)。
そして「夏の空気」の描出。冒頭近くに置かれた「窓が開け放たれた廊下」のカットから、夏の、暑さ、空気の湿り気、しかしそのなかで時折気持ちのいい風が通りぬけること、あらゆる窓が開いていて、風や音が侵入してくることの解放感、とはいえ、その程度の風ではこもった熱には影響なく、どんどん熱はこもってゆくこと、などの感覚的印象が積み重ねられてゆく。
(しかし、吹奏楽部の部室――音楽室?――の窓は閉じているから、黄前の熱はこもってゆく。)
そのような暑さのなかで必死に練習する黄前の、頭に血が上ってゆくというか、「のぼせて」ゆく様が的確に描写される。この「のぼせ」は、はじめて自分自身が問われたことによる混乱であり、今までの自分が持っていた、「語り手」「支援者」としての世界との関係性のスキルが役にたたない事態になったこと(高坂に当てられて「上手くなりたい」思いが強くなった時に、降って湧いたように困難な課題が与えられたこと)への混乱の表現であろう。ここで黄前をあからさまに混乱させるのではなく、外見的には(現状を冷静に判断して)「一生懸命練習している」ように見えるのだが、熱いなかで水も飲まずに練習をつづけるなど、実は冷静な判断を失っていて(頭のなかでは「あわあわーっ」となっている)、しかしそのことに自分でさえ充分気づけていないという風に、混乱を「表面には現れにくい小さなちぐはぐさ」として描いているところが、つまり、感情の表出にガードがかかっていて、「わかりやすく混乱することが出来ない」人物として黄前を描いているところがリアルだと思う。
(こういう「上手い表現」を思いつけるかどうかが「才能」なのだと思う。)
この回、黄前はさまざまな体液を排出する。まずは、汗、つづいて鼻血、そして涙。黄前は、思ったことがつい口から洩れてしまう人物として描かれていた。しかしそれはあくまで「言葉」であり、言葉として表現可能な「思ったこと」でしかなかった。一方、自分自身の欲望や感情を問うことを避け、それらを表出する機能にガードがかかっている黄前にとって、例えば「涙(泣くこと)」という分かり易い感情表現への通路は封鎖されている。汗や鼻血は、黄前の感情表出機能のちぐはぐさを示すものであり、「言葉」に整理できないちぐはぐな感情の表出でもあり、そして涙という分かり易い感情表出に至るまでの試練の過程を示すものでもあると思う。
(それにしても、この作品の「泣く」表現はすごい。涙の零れ方と顔の歪ませ方。現実に人が泣くのに似ているという意味のリアルさはまったくないのだけど、アニメーションとしての「泣く」表現のすごい達成なのではないか。まるで、糸の切れたネックレスの真珠が散らばるように、涙が散らばる。
それは、ちょっと過剰過ぎるとも思われる眼の表現ともかかわっているのだろう。)
12話目でようやく「泣く」ことが出来、作品冒頭の高坂に追いついた黄前だが、その前に別の関係もある。これまで、ユーフォニアムを吹く黄前は優等生であり、演奏に対して特に問題はなかった。一方、幼馴染のトロンボーンを吹く塚本は、ことあるごとに滝からダメ出しをくらっていた。黄前はそれをただ見ているだけだった。困難な課題を与えられ、はじめて「吹けない」ことに直面したことによって、ここで改めて塚本との関係が見直され、塚本との気持ちの行き来が生じる。しかしそれは直接的なものではなく、川や道路を間に挟んだ音(楽器の音、声)の応酬という形で描かれる。
黄前の、上手くなりたいという気持ちの盛り上がりと、そのための努力は、あっさりと否定される。合奏の練習中に、その部分は田中だけで吹いてくれ(黄前は吹かなくてよい)と滝から言われる。この唐突で冷酷な切断と、その直前に挿入される「嫌な予感を強要する」ナレーションは、観客に負の感情による作品への巻き込みを起こさせるように思う。観客の気持ちを安定させないことで巻き込んで行く。
いわばこの時、黄前は前回のソロパートのオーディションに落ちた中世古と似た位置(あるいは、そもそも演奏することの出来ない加藤や中川も含めていいかもしれない)に立つことになる。つまり、今まで優等生であり、「物語の報告者」であった黄前が、上手く吹けないことで塚本の位置を経験し、吹かなくていいと言われたことで中世古(加藤、中川)と同じ位置を経験し、その二つの「当事者」たちの位置を通り抜けることで、ようやく「(作品冒頭の泣いていた)高坂の気持ち」に到達する。
上手くなりたいと泣きながら橋から川べりを走る黄前が、その悔しさのなかで唐突に「高坂の涙」に到達する(「上手くなりたい」から「悔しくて死にそう」への転換)場面はすばらしい。すばらしいので、ここでクライマックス、ここで終わりでも観客は充分に満足するだろう。にもかかわらず、さらにあと二段、クライマックスとオチが加えられている。
(この「高坂の涙」への到達が、塚本との応酬のなかから生じるというのも、とてもすばらしいのではないか。)
まず、唐突な切断によって惹起された負の感情(ショック)の緩和が行われる。夜の学校に忘れ物を取りに来た黄前に、滝が、府大会の後に勝ち進む関西大会のためにちゃんと練習しておいてください、私はあなたの「吹けるようになります」という言葉を信じていますよ、というようなことを言う。これは、キツイ言葉を言われて落ち込んでいる時にやさしい言葉をかけられるみたいな、絶大な効果がある。しかも、そのキツイ言葉のおかげで「高坂の涙」に到達できた、というすばらしい場面の直後だけに一層効く。もう、ここで泣かないのは無理、という。
(しかしこれは、黄前の、もうどうにも止まらないという感じの「上手くなりたい=高坂が好き」という感情に、さらに燃料を投下して一層燃え上がらせようとする悪魔の発言とも言える。「のぼせ」の表現でも明らかだが、「燃えることに慣れていない人」である黄前を、こんなに燃やしてしまって大丈夫なのか。)
そして、これだけ畳み掛けるようにぎっしり充実した、ほんの二十数分の間にどれだけこちらの感情を引きずり廻すんだよという濃厚で圧縮された時間のオチが、「ユーフォくん」といういなし方がすごい。黄前が「高坂の涙」に到達した後、はじめて黄前と高坂が二人で会う場面は、一体どんなことになるのだろうと思っていると……、ユーフォくん初登場。ええーっ、という……。
いや、いままで仮のものとして「チューバくん」のマスコットを鞄につけていた黄前が、ようやく初めて自分の真の欲望である「ユーフォくん」に出会ったということなのだろうけど。
(そのような回でも、主要人物以外のキャラもきちんと描かれている。例えば、後藤が、おそらく初めてメガネを外している。そして、「あの部分、確かに音の厚みが足りなかった」みたいな、まさに「世界の厚み」を支えるような発言をする。)
(一ヵ所だけ、蜘蛛の巣にかかっている蝶は、ちょっとやりすぎだと思った。)