●なんとなく、『ベイマックス』をブルーレイで観てみたのだけど、単純な疑問として、なんでベイマックスというキャラを最後までちゃんと生かさなかったのだろうか、と思った。あんなに完成度の高い、いいキャラを創造しておきながら、中途半端にしか使えていない感じ。バトル型ロボットとか戦隊ヒーローもどきとか、そういうのは別にいらないのではないか、と。
この映画を観てみようと思ったのは、戦うことの出来ないケアロボットであるベイマックスが、どうやって主人公を危機から守るのか、みたいな宣伝文句につられて、面白そうだと思ったからなのだけど、結局、ベイマックスにアーマーを着せて普通のロボットとかわらなくして、普通に戦っているではないかと思ってしまう。心優しい、出来る限り人を傷つけない戦闘型ロボットなど、既にいくらでもいるのではないか、と。ビニールで出来ているからちょっとしたことで体表に穴が空いてしまうし、速く走ることも出来ず、すぐにバッテリーが切れてしまうという、最初に出てきた設定のままで最後まで行かなければ、その設定こそを生かしたアイデアを出して、物語の展開が考えられなくては、この作品としてのユニークさが成り立たないではないか。作品としての一本通った筋がなくなって、いろんな作品のいいとこ取りしたツギハギに過ぎなくなるのではないか、と。
おそらくこの作品では、ベイマックスという存在の軸が二つに分裂している。ベイマックス=トトロ(キャラクター)という軸と、ベイマックスガンダム(モビルスーツ)という軸。もし前者の軸が作品を支配するのであれば、ベイマックスは最初の設定から大きく外れることなしに、その設定の可能性を追求する作品にならなければならないだろう。しかし後者が軸だとすれば、体表が弱ければ外殻で補強するのが合理的、動きが遅いのであれば速く動けるプログラムを新たに仕込むのが合理的、相手にダメージを与えるためにロケットパンチも必要、ということになる。ベイマックスは人工物(メカ)なのだからいくらでも改良(ツギハギも書き換えも)可能だということになる。そういえばベイマックスのなかには、タダシのプログラムと、ヒロのプログラムという、二種類の異質なプログラムがはしっているのだった。この二つの軸は、ほとんどそのまま、作品の前半と後半に対応する。後半のベイマックスのなかでは、ケアロボットをつくろうとするタダシの魂ではなく、ロボットバトルを好むヒロの魂が支配権をもっているということか。
そう考えれば、ベイマックスの二つの軸への分裂を、「二人の作者の分裂」として、作品自身がちゃんとその正当性を語っているとも言える。
つくった人たちはきっと、ゆるキャラ、ロボットアニメ、戦隊ヒーロー物など、いわゆるクールジャパン的なコンテンツが大好きな人たちなのだろう。でもそれを、模倣する、あるいはそこから学ぶというより、意識的に「誤解」を介在させた形で異化して示そうとしているようにみえる。この映画は、欧米人のもつ日本のオタク的コンテンツに対する「不正確なイメージ」をある種のオリエンタリズムとして意図的に利用したような感じがある。
一昔前の「紋切り型の日本」のイメージが、ジャパンとチャイナとを混同させたものであるように、「トトロ(キャラ)」と「ガンダム(メカ)」という一つには合流しない別作品、別系列を、「ジャパニメーション(あるいは「日本的オタクコンテンツ」)」というおおざっぱなイメージのなかで意図的に混同させているようにみえる。
(さらにそこに、戦隊ヒーロー物という別の要素がのっかっているのだが。)
ではなぜ、意図的な混同を利用してまで、二つの軸への分裂を一つの作品のなかで行おうとするのか。それはおそらく、この物語が兄の死の話だからだろう。唐突に死んでしまった兄の死を受け入れられない弟が、兄をきちんと「死んだ者」の位置に置くことができるようになるためには、兄の残したベイマックスに癒されるだけでは足りなくて、それを、自分のやり方で書き換えた上で、改めてきちんと葬ってやる必要があるのではないか。兄の魂の宿ったベイマックスを書き直すこと(ケアロボットであるベイマックスを戦闘ロボット化すること)は、死んだ兄との対話であり協働であると同時に、弟の手によって再び兄を殺してやるということでもあろう。そして、兄との対話=事件の解決の過程で、ベイマックスは異次元の彼方に消え(兄の二度目の死が完了し)、弟は兄の死のショックから立ち直るだろう。図式として分かり易い。
興味深いのは、ベイマックスの異次元への消失と引き換えであるかのように、消失していた教授の娘がこの世界に返されることだ。これは一見、ご都合主義のようだが、おそらく作品全体としての辻褄として重要なことだ。兄のタダシは、教授を助けようとして火事に飛び込んで亡くなった。だが教授は勝手に助かっていた(マイクロボットによって助かったのだから、ヒロに助けられたようなものだが)。では兄の行為は無駄だったのか。そうではなくタダシは、ベイマックスを通じて「教授の娘」を助けることは出来たのだと(そしてそれは、悪と化した教授を悪から救うことでもあるとも)、言えるようになる。
(バトルシーンはあっても、それは事件解決のためのもので、敵をやっつけるためのものではない、という一線は守られている。ヒロは結局、自分のつくったモノと戦っているようなものだし。)
●このように考えれば、作品の整合性としては理解できる。ただ、ぼくとしては、ヒロのではなく、タダシのベイマックスの話が観たかった。作品の構造として納得はするが、後半はやはりあまり面白いとは思えなかった。
(この映画は基本として、マッチョな男とセクシー美女――アメフト部+チア部=リア充みたいな――ではない、気弱で地味なオタクたちがヒーローになるという話だという側面もある。でも、普通に考えれば彼らはみんな立派な技術力をもつ理系エリートで――怪獣オタクの人は除く、しかし彼はエリートではなくても大金持ちの息子だ――つまりテクノロジーと資本をもつ彼らは、現代の資本主義ではまさに「勝者」そのもので、彼らがたとえナードであったとしても――ぼくから見るとあまりにポジティブ過ぎて鬱陶しいくらいに見えるのだけど――はじめから充分にマッチョやセクシーに勝っているではないか、と思ってしまう。)