ガタリの『分裂分析的地図作成法』がすごく面白い。まだ、ようやく四分の一くらい読めただけなのだが、『機械状無意識』よりずいぶん分かり易い。図や表がいっぱいあって、まずそれを書き写したり、複数の図や表を重ね描きしてみたり、書き換えてみたりしながら、それが何を言おうとしているのかを3D的な配置として考えて、それから、図や表からだけでは分からないところを本文から読み取るみたいな感じで読んでいる。
まず、この世界を「共立平面の四つの区画」に分けてモデル化して、あとはひたすらその四つの区画の関係を細かく説明してゆく。だから、具体的な事はほとんど書かれず、抽象的な概念とその説明、概念同士の関係づけばかりが書き連ねられているのだけど、それでも面白い。ここに書かれているのは世界のモデル化であり、ある世界像なのだけど、しかしそれと同時に(分裂分析のための)無意識のモデル化であり、つまり、世界そのものと無意識が区別されていない。世界=無意識であることによって、物質的なものと精神的なもの、科学的なものと人文的なものとを、(きっと科学者が怒るようなやり方で)強引に接合して、統一的な情報論的世界=無意識モデルをつくることが目指されているのだと思う。そしてそれが、地図であるよりは地図作成法であるというところが面白いのだと思う。
具体例のあまりない(あってもちょっと分かりにくい)この本を見ながら、ぼくは絵画のことを考えたりしている。





共立平面の四つの区画は、二つの軸によって分けられている。一つは、現実的−可能的(非連続的/連続的)という縦軸で、もう一つは、実在的−潜在的(多項的/単項的)という横軸。現実的→可能的という軸は脱テリトリー化の軸とも言われ、実在的←潜在的の軸は言説化の軸とも言われる(他にもその都度いろんな呼ばれ方をする)。この二つの軸に沿って四つの区画がわけられる。
現実的で実在的なものは、物質的で信号的な「流れ」あるいは「コンプレクシオン」と呼ばれる(「F」によって表される)。これはごく普通の意味での物質的な世界のような感じ。次に、実在的で可能的なもの。これは、抽象機械状の「門」あるいは「リゾーム」と呼ばれる。ざっくり言えば物質的な世界のポテンシャルのようなニュアンス(「Φ」によって表される)。F」と「Φ」の領域はおそらく科学的に、あるいは言説的に扱える領域で、「外部準拠されたモデル化のシステム」と言われる。
次に、潜在的で現実的なもの。これは、実存の「テリトリー」または「切り取り」と呼ばれる(「T」)。これはふつうに「心」と言われるような領域と考えればそんなに大きく外れていないと思う。最後に、潜在的で可能的なもの。これは、非物質的な「世界」または「布置」と呼ばれる(「U」)。最も抽象性の高い領域で、非物質的であり、かつ、心のように個々に分割されていなくて、あらゆる視点を潜在的に含んでいるものとされる。「T」と「U」は非言説的な領域で「内部準拠されたメタモデル化のシステム」と呼ばれる。
世界=無意識はこの四つの領域の関係として表現(あるいは分析)できる、と。四つの領域は階層的ではなく並立的であり(おそらく共立平面の平面とは並立という意味であって2Dという意味ではないと思う)、下の図のように複雑に相互関係し合っている、と(この本は、下の図が示す関係をひたすら詳細に記述してゆく)。




現実的/可能的という対と実在的/潜在的という対とは違うという話は「哲学の話としてよく聞くけど、ここではそれを二つの軸として重ねて、潜在的で可能的というイメージしにくい領域(U)をつくりだしている。いわば、二つの心身問題(「F−T」という通常の心身問題と、「F−Φ」という機械状の心身問題)を重ね合わせて、「F−U」というメタ心身問題(内容−表現問題)を浮上させている。そしてこれは哲学ではなくて分析のための地図作成法だ。




で、細かいことはいろいろあるのだけど(細かいいろいろこそが面白いのだけど)、それらを置いておいてざっくり言えば、「F−T」という軸の上で制作して、それによって「U」との相互作用を試みようとする画家と、「F−Φ」という軸上で制作して「U」と関わろうとする画家がいるよなあという話をここではしたい。例えば「アンフォルム」という概念では「F−Φ」軸上の作品しか捉えられないけど、それとは別の「F−T」という軸があるということを、ガタリの共立平面という「地図作成法」によって意識化できる。
(「アンフォルム」の場合はフォルムの下にアンフォルムがあって上下が逆転しているのだけど、四つの区域は並立的なので、ここで上下関係はあまり意味がない、はず。)
「F−Φ」の軸とは現実的/可能的という軸の方向にあり、非連続/連続という軸上での力のやり取りである。対して「F−T」の軸は実在的/潜在的の軸であり、これは多項的(関係)/単項的(自己準拠)という軸上でのやり取りである。つまり連続/非連続という軸上を移動する前者は、機械的、パルス的であり、秩序と混沌の間を行き来し、線、形態(概念)、図と地の関係という問題によって仕事をする。一方、自己準拠/関係という軸上を移動する後者は(ある意味、神秘主義的であり)、情動(自己準拠)と効果(関係)の間を行き来し、色彩、フィールド、フレームの操作という問題において仕事をする。前者は、ピカソデュシャンポロックシュルレアリスムアンフォルメルなどで、後者は、マティス、ルオー、ゴッホ印象派、カラーフィールドペインティングなどと言える。ピカソマティスの仕事の仕方の根本的な違い、ポロックとモーリス・ルイスの違いは、連続/非連続の相克という軸において制作するか、単項(自己準拠)性/多項(関係)性の相克という軸において制作するのかの違いだと考えると、感覚的にもすんなり理解できるように思われる。そしておそらく、セザンヌは、この両方の軸を斜めに移動する。
勿論、誰でもが双方の軸の力を受けているのだし、このように二分化してしまうとこそが「分裂分析」が避けようとしていることとも言えるのだけど、ここでは大雑把にどちらの軸を主軸としているのかという話だ。
だからこれをもう少し丁寧に見てゆくならば(二番目の表を参照、読みにくいけど)、「F−Φ」の軸の画家は、「実存的マトリックス」(図では間違って「実在的マトリックス」と書いちゃてあるけど…)の場所から「ダイアグラム的テンソル(→ダイアグラム)」に引っ張られて「F−Φ」(現実的−可能的)軸に到達し、そこで「開いたシステム的効果」と「閉じたシステム的効果」という力の相克の上を行き来することで仕事をする。
対して、「F−T」軸の画家は、「内容の素材」の場所から「感覚的テンソル(→感覚的テリトリー)」に引っ張られて、「T−U」の軸に到達する。だけど、ここで細かい話をすると、ガタリによれば「T」から直接「U」へと通じる「T→U」という通路は禁じ手とされていて、必ず「F−Φ」を経由する必要があるとされる。だからここで上向きの「開いた構造的情動」方向へは行けないので、下向きの「閉じた構造的情動」に従って実存的マトリックスの場所に行き、そこからダイアグラム的テンソル(→ダイアグラム)によって「F」の領域に戻ってくる。つまり、「内容の素材−感覚的テンソル(−感覚的テリトリー)−閉じた構造的情動−実存的マトリックス−ダイアグラム的テンソル(−ダイアグラム)−閉じたシステム的効果−内容の素材」という横倒しの八の字状のループによって「F−T」(実在的−潜在的)軸を行き来することになるのだろう。
だとすれば、前者は「実存」から出発して「機械状」の領域へと上昇し(ポロックシュルレアリスムっぽい)、後者は「素材(物質)」から出発して「情動」に至る(マティスやルオーっぽい)という、交差的な関係にあるとも言える。
あるいは(さらにややこしいけど)、前者には、「実存的マトリックス−ダイアグラム的テンソル(−ダイアグラム)−開いたシステム的効果−機械状のリゾームノエマテンソル(−ノエマ)−閉じた構造的情動−実存的マトリックス」という経路(というか力の相互作用)による上昇があり得るし、後者にはそれよりやや複雑な「内容の素材−感覚的テンソル(−感覚的テリトリー)−閉じた構造的情動−実存的マトリックス−ダイアグラム的テンソル(−ダイアグラム)−開いたシステム的効果−機械状のリゾームノエマテンソル(−ノエマ)−閉じた構造的情動−実存的マトリックス」という経路による上昇があり得て、この時に「U」の領域の力が絡むことになる。
(「上昇」とは言っても図の上でのことでしかなく、上と下との「上下関係」はない、はず。)
(図を見せて、それを指さしながら説明すれば簡単に済むのに、文で表そうとすると、書くのも読むのも面倒な感じになってしまう。)
●図と地という問題が、連続/非連続とかかわり、線と形態という表現をもつということは、まさにポロックの作品の変遷―――図が消え、また現れる―――を見れば納得できると思うし、フレーム(あるいはフィールド)の問題とは関係(多)と自己準拠(一)の間にある問題に他ならず、その表現が必然的に(情動と効果を結びつけるものとして)色彩を呼び込むというそこのことを、マティスの「赤い部屋」という作品が明らかなものとして証明しているように思われる。ここには、図=形態と、フレーム=フィールドとの、微妙だけど根本的な違いがあらわれているように思われる。形態は輪郭線によって表現されるが、フィールドは色彩の広がり(広がる力)によって表現される。