●制作。まず、鉛筆による下地としてのドローイング。あらかじめ歪みをもったマトリックス、あるいは、互いに互いを食い合っているグリッド。しかし、これだけではたんにオールオーバーであるしかない(つまりホーリズム的である)。
●上の、下地としてのドローイングから、形や線を拾いあげてゆく。マトリックスから図が浮かびあがる。時にグリッドに沿い、時にグリッドを裏切りながら、色や形が選び出されてゆく。形や線はグリッドから、色彩は絵の具や色材から選ばれるのだが、下地としてのグリッドの形はしばしば裏切られるし、色材は混色されたり、塗り重ねられたりする。
形(色の領域)や線は、それ自体として一つ一つ個別のものであり、各々の性格をもち、ある自律した単位として観ることができる。
だが、その自律性(個別性)は、近傍にある別の形や線との関係のなかで獲得されている。そして、フレーム全体としても、ある、ゆるい関係性のなかにあるように見える。つまり、ある細部だけが突出している状態ではなく、全体としてのトーンのようなものをもち、全体としての流れのようなものをもち、個別の形や色は、各々、全体のなかでの一定の役割をもつ。
ドローイング(上)は、紙に鉛筆、透明水彩。ドローイング(下)は、紙に色鉛筆。
●ただ、あらゆる細部が交換不可能であるという程の緊密な関係性はもっていないし、必ずしも今ある「このフレーム」で区切られなければならないというほどに緊密な関係でもない。個別の形や色は別のものに交換可能であり、フレームの区切りやスケールも、別の区切りやスケールでも可能であった。それは、まったく同じ下地としてのグリッドから、まったく異なる絵を生成することが可能であるということも意味する。それを示すためにも、下地である鉛筆の線は残される。下地として残されたグリッドは、反実仮想を可能にする。わたしはわたしでなく、あなただったのかもしれない。もし、あなただったとしたら……。
とはいえ、ランダムに、どのようにでも交換可能だ、というほどに個々の形や線やフレームやサイズは無関係ではない。わたしとあなたとは、家族のように似ているが、家族のように別人である。あるいは、わたしとあなたは、サーバルキャットとハシビロコウのように異なっているが、どちらもフレンズである。
タブロー、キャンバスに鉛筆、油絵具。