2022/01/20

●去年、この日記に何の説明もなく掲載したりしたが、少し前から「一筆書きで描かれた顔」というドローイングをやっている。これは作品と言えるほどのものではないく、酔った時に勢いで描いている落書きようなものだが…。

何が問題にされているのかというと、「顔」というゲシュタルト(あるいは「顔」というフィギュール)が崩壊寸前のギリギリのところで保たれている領域、つまり「顔であるのか顔でないのかギリギリのところで顔である」という状態におけるヤバい感覚を捉えようとしている。それを逆から言えば、たかだか(途切れない)一本の線でしかないものに、顔というゲシュタルトやあるいは表情のようなものが宿る(線が「顔」のゲシュタルトを絡め取る)ための、最低限の要件を探る、ということでもある。

人にとって「顔」の認知は特別なものだから、丸を書いて黒い点を二つ打てば難なく「顔」にみえる。あるいは、フレームとしての丸さえ必要なくて、黒い点を二つ打ちさえすれば、もうそれは「顔」である。でも、そうではなく「一筆書き」という縛りによって、シンプルな最低限の要素だけでは済まずに、ノイズとなる線や形が必然的に混じり込むことになる。だから、顔を顔たらしめている要件と、顔が顔であることを崩壊させようとするノイズとのせめぎ合いが生じる。そのせめぎ合いのなかで、ギリギリ「顔」であるような状態。

恐怖は、混沌と秩序(ゲシュタルト)の間で、秩序から混沌にずり落ちていきそうな領域、あるいは逆に、混沌が秩序を掴めそうで掴みきれない領域で生じる。そしてそのような領域は、多くの人に不安や不快を与えるだろう。だからこれらのドローイングは、人から嫌われるようなものとして存在している(とはいえ、分かりやすく「気持ち悪い」ようにはしないようにしている)。

 

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