尾道で展示する作品について少し書きます。
今回は、水彩紙、およびキャンバスに透明水彩で描いた作品と、紙に色鉛筆その他で描いたドローイングを展示する予定です(昨日の日記に添付した二種類のポストカードのそれぞれの感じです)。それ以外にもキャンバスに油絵の具で描くシリーズも制作していますが、今回それは展示しないと思います。
ドローイングは、今までやってきた仕事の延長にありますが、透明水彩のシリーズは今回はじめて発表します。ドローイングのシリーズと透明水彩のシリーズは裏表の関係にあります。







●ドローイングのシリーズは、線と、それによって取り囲まれる領域に関する仕事です。線は、それ自体である表現性(色、太さ、筆触、動き、形、長さ、など)を持ちますが、同時に、ある線と別の線との間に関係を生じさせます。そしてその関係は、線を線(図)として見た時の「線と線の関係」と、複数の線が取り囲むことによってできる領域の方を図とした「領域の形」との両方を出現させます(例えば「井」という文字を、四本の線の重なり方として見るのか、中央にある閉じられた一つの四角形と、その周りの八つの開かれた--出来損ないの--四角形、という風に見るかの違い)。何も描かれていない白い領域は、何も手をつけられていないまま、線に取り囲まれることで形になります。
ぼくのドローイングでは、線は領域を取り囲みますが、輪郭線のように閉じていません。例えば画面のどこかに「〈 〉〈」のような三本の線を引いた場合、「〈 〉」という形が見えるだけでなく「〉〈」という形も見えるはずです(とはいえ、より「閉じた形」に近い「〈 〉」が強く見えると思いますが)。このようにして、複雑な線の絡み合いは、領域を様々に取り囲み、しかしその形は眼が注目する部分の移動にともなって生まれたり、解かれたりするでしょう。これは、線と線とがつくる近接的な関係によります。
さらに、線と線との関係は、遠隔的な関係も生じさせるでしょう。例えば、画面右下にある線の長さや形や表情が、画面左上に別の線と似ていた場合、眼は、距離を越えて二つの線から対応関係を読みとる(感じとる)でしょう(例えば、物語のはじめと終わりとで似たような場面が反復される時、間の距離を越えて二つの場面が響き合うように)。さらに、形が反転的に反復されている場合も、「くるま」と「まるく」のような連想関係を読みとると思います。線だけでなく、線に取り囲まれた領域の形が、似ていたり、反転されていたりしても、眼は連想的な響きを感じとり、距離を越えてジャンプした関係を感じると思います。
このようにして画面は、線そのものの表現性、線と線との近接的関係と遠隔的関係、線によって囲まれた領域の形の近接的関係と遠隔的関係、という風に、イメージの三つの層(線、線同士の関係、線に囲まれた領域の形)と、二つの距離(近接性と遠隔性)をつくりだし、画面は、その重なり合いが現象するための場として捉えられると思われます。
ここで、線をノード、線がつくりだす様々な関係性をネットワークとするならば、それらを可能にしているのは、物質的な支持体の表面と、それを読む「わたし」の志向性ということになると思います(「読む」と書いたのは、眼はここで、支持体の表面をただ見ているのではなく、そこに現象する図と地のネットワークを、イメージとして、読み出し、崩し、読み直している、と言えるから)。画面とは、潜在的なものまで含めたそのようなネットワークの重なりであると思います。
(一つの画面のもつ、表情、感覚、感情、表現は、そのようなネットワークのありようによって生み出されると考えます。)
●水彩の方の仕事は、まず、上記のようなドローイングが鉛筆で描かれた後、それをいったん消しゴムで粗く消して、消された線の痕跡から、線によって囲まれた領域の形を、こんどは色面としてひろって(つまり解釈し直して、あるいは発見し直して)ゆくという作業によってできています。
ドローイングの仕事では、面は、線に囲まれた領域として、いわばネガティブに示されていましたが、ここでは、面の方を色によってポジティブに顕在化させることで、線をネガティブな形で示そうとしています。
●そして、この表裏の関係にある二つの系列の作品を同時に展示することで、その間に、ある共鳴関係(第三の次元)が感じ取れればなあ…、と思います。
これは、線自身にとっては、線と線の関係、あるいは線によって取り囲まれる領域は別の次元であるし、また、線によって取り囲まれる領域にとっては、線それ自身が別の次元であることと同じだと考えます(第三の次元そのものが何か特別なものとは考えていません)。
もちろん、それとはまた別のレベルで、個々の作品はそれ自体として閉じていて、独立した作品としての表現性をもっているはずです。それと同時に、一本の線、一つの領域、一つの色面、一つの関係、なども、それぞれそれなりに閉じて、独立してもいる一つの感覚の単位でもあります。
●これらの作品は、絵の具、色鉛筆、キャンバス、紙などの、絵画を描くための伝統的な素材によって形作られています。上の説明からでは、これらの作品が「絵」として描かれる必然性は説明できません。絵を描くのとは別の素材を使って、別の構築手段によって、上記のような形式的操作をすることは十分に可能でしょう。これらが絵であるのは、いわば慣習や作法に従っているに過ぎないということもできるでしょう。
しかし、慣習や作法を完全に相対化することは可能なのでしょうか。慣習や作法は普遍的なものではありませんが、慣習や作法がゼロである状態を生きることはできないように思われます(慣習や作法ゼロの状態を「無知のベール」のような形で想定することは可能ですし、想定可能であることは限りなく重要だと思いますが)。「わたし」とは、ある特定の慣習や作法のなかで生まれ、そこからまた別の慣習や作法へと動いてゆくものであるとも言えます。
「わたしは画家である」という事実があったとして、その外に立ってそれを相対化することも可能だし、その内にいてそれを運命として受け入れることも可能でしょう。しかし、そのどちらか一方だけを排他的に受け入れることはできません。
●うーん、もうちょっとわかりやすく、軽くさらっと書くつもりだったのだけど……。