●一枚の十分に大きなフレーム(具体的には788×1091mmの画用紙)のなかに、異なる二つの起点をもつ複数の線たちの関係づけを、同時進行的に行ってゆく。要するに、一枚の大きな紙のなかに、二つのドローイングを同時並行的に描いてゆく。それらは、同時進行ではあるが、基本的には互いに自律的であり、とはいえ、ひとつづきのフィールド上にあるので、緩い相互作用が生じはする。どの程度自律的で、どの程度の相互作用があるのかは、二つのドローイングが生成する発展の過程によって異なる。まったく別の紙に描いたかのように自律的なものが二つ並ぶのかもしれないし、二つで一つのドローイングとして溶け合うくらいに互いに影響し合うかもしれない。
このようにすることで何が得られるのか。絵を描く時にはあらかじめある広さの領域(フレーム)が与えられる。一枚のキャンバスとか紙とかの大きさがある。しかし、絵には、絵の内的要素たちの関係によって、つまり描くことによって生まれる、内的で流動的なフレームが発生する。これは一つのタッチを加えるごとに振動し、変化する。通常、この二つの異なるフレームは、なんとなく一致することが求められる。成功した絵は、二つのフレームが最終的に自然に一致しているように見える絵で、逆に上手くいかないと、どこかギスギスしたり息苦しい感じになるし、下手をすると無理やり一致させようとする過程で内的なフレームの秩序が破綻してしまうこともある。あらかじめある外的なフレームと、描くことによって生じる内的なフレームをどう一致させるか、あるいは、「それを一致させようとする権力」からどう逃れるのかという問題は、近代絵画の最も大きな問題の一つでもあった。
故にその解答例も既にいくつも存在する。セザンヌのブランク(外的フレームと内的フレームのズレそのものが作品の強さとなる)、マティスの切り紙絵(内的フレームが先行し、内的フレームによって外的フレームがつくられる)、ポロックやルイスのように麻布や綿布を切り離さずに反物の状態のまま(母胎と連続的な状態で)絵を描くこと(描いている時には外的フレームがまだ切り出されていないから存在しない)、あるいはステラのシャイプドキャンバスのように、内的フレームと外的フレームを(予定調和的に予め)完全に一致させること、あるいは、絵画を彫刻化、インスタレーション化して、つまり三次元化すること(三次元空間は基本的にどこまで延長できるし縮小もできる)等々。シュルレアリスムのように、外的フレームというものの存在を、出来る限り軽く扱う(いわゆるメディウムスペシフィックの真逆)というやり方もある。
しかしそのような「強い」問題意識によってではなく、描く人もそれを観る人も、外的なフレームと内的なフレームの不一致を、特に気にすることもなくルーズに受け入れられるような形が、一枚の大きなフレームに同時に多数の内的フレームを立ち上げることではないか、と、上手くいかなかったドローイングの余白に別の落書きをしている時に気が付いた。つまり、一枚の大きな外的フレームのなかに、二つの内的なフレームがあれば、その三つがズレていたり、一部重複していたりするのは当然なので、それを観る人の「見る」という行為が、適宜フレームを調整しながらそれを観ることになる。特に描く人としては、外的フレームとの緊張関係(外的な規範のようなもの)を強く気に掛けることなく、内的な関係の発展を考えて描くことができる。
とはいえ、この「複数」があまり多数になると、今度はたんにイメージの羅列、あるいは配置になり(大きな壁にたくさんの絵を並べたり、壁紙に柄がたくさん並んでいるのとかわらない)、外的フレームがたんにイメージの「地(環境)」になって、内的フレームと外的フレームのズレが見えなくなってしまう (これを極端に推し進めたのがヴィアラだろう)。ズレをことさら強く顕在化するのではないけど、ズレが存在することはちゃんと見えていた方がいい。
このことは、昨日の日記に書いた、「群れが意識をもつとして、それは一人なの、二人なの、それとも…」ということにも関係がある。タッチや線の集積として一枚の絵を描くということは、いわば、個が個であるまま、群れとしての意識や身体を発生させるということでもある。その時、外的フレームと内的フレームのズレは、身体スキームと身体イメージのズレに近いともいる(とはいえ、郡司本では、身体スキームは未分化な何か(X)から身体イメージと同時に分化・生成されるので、「身体そのもの」が予めあるわけではない---物質は基底ではない---だからこそズレているのは前提なのだが---この描像は絵ではセザンヌに一番近いと思う---これを敷衍すると「基底材は存在しない」ということにもなる…)。例えば、ある群れ(個の集積)が身体化し、それが二つの身体(二つのわたし)へと分離しつつ、同時に、共有されている一つの痛み(つまり一つのわたし)をもつ、ということがあり得るのか、とか考えるのは面白い。
●「基底材は存在しない」とは、基底材は予め(前提としては)存在しないということで、それは例えば、紙やクレパスといった「画材(素材・それは環境と地続きにあり、環境的文脈の上にある)」だったものが、描くことによって、モノとしての「基底材(外的フレーム)」とコトとしての「絵画の内容‐秩序(内的フレーム)」に分化し、そしてその両者を接合する「絵画形式」というコギトがあらわれる、ということとも考えられる。
外的フレームと内的フレームのズレを極限にまで押し広げ、同時に、それを接合するとても強い絵画形式(コギト)を実現しようとしたのがセザンヌだとすれば(勿論これはすごく粗い言い方だ)、一枚の大きな紙のなかで二つのドローイングを同時に生成、発展させるというのは、外的フレームと内的フレームとの緊張を顕在化しつつも、それをゆるく吸収することで、多重人格のように二つのわたしの共立をなんとなく許容する、ぼやっとした絵画形式(一つのわたし)がたちあがるのではないか、という、そんな程度の思いつきなのだけど。
(ここで言う「わたし」あるいは「コギト」は、それを描いている人のもとにあるものではなく---画家の側の問題ではなく、あくまで絵画、あるいは絵画形式の側にあるもののこと。)