2023/12/11

⚫︎ピカソやブラックのパピエ・コレ(コラージュ)で決定的なのは、紙の上に紙が貼られるということではないかと思う。ここで、台紙(基底材)であるもの(紙)と、描画材であるもの(紙)が、(大袈裟に言えば)存在論的に同じ位相にある。

紙に木炭で描くというとき、基底材(支持体)は紙で描画材が木炭となる。ここで、物としての紙はその物質性を後退させてイメージを宿す場となり、物としての木炭はその物質性を後退させてイメージを形作る素材となる。紙は基底材であり表象の舞台でありフレームであるという役割をもち、木炭はイメージを体現するという役割を持つ。役割のレベルがはっきりと分けられる。

だが、紙の上に紙が貼られるとき、それはどちらも同じ紙であるから、貼られた紙もまた、台紙となる紙と同等にひとつの自律した基底材であり、フレームであり得る。ピカソやブラックは、木目が印刷された壁紙や文字が印刷された新聞紙を描画材として画面に貼り付けるが、それはもうそれ自体で、木目模様や文字というイメージを表象している基底材であり、フレームである。

画中画のように、画面の内部に複数のフレームが描き込まれる絵はいくらでもある。しかしそのとき、キャンバスとしての「物理的フレーム」と、絵の中にある「描かれたフレーム」とでは、存在の位相が異なる(物理的キャンバスは三次元空間の中にあり、描かれたフレームは二次元の表象空間の中にある)。しかし、紙に貼られた紙は、現実レベルで同等であることが常に見て取れてしまう。ゆえに、現実レベルと表象レベルという階層が安定的に維持できない。これだけでもう、基底空間の単一性が揺らいでしまう。

このことには二つのレベルがある。

(1)白くて目が荒くて厚みのある水彩紙の上に、茶色がかってガサガサして薄いクラフト紙が貼られるとき、そこには質感の差異による効果が生まれる。ここで、台紙としての水彩紙に、イメージとしてのクラフト紙が貼られるのだが、しかしどちらも「紙」であるので、両者の関係は一義的には決まらない。クラフト紙が「水彩紙の作る表象の場」から外れ、それ自身がフレーム(表象の場)であり得ることを主張する。

(2)イメージが描かれる場である台紙の上に、その表象秩序とは別のやり方でイメージが既に描かれた紙が貼られる。既に木目が印刷されている壁紙や、文字が印刷されている新聞紙は、紙の上に描かれる空間の秩序には収まらず、それ自身のやり方でイメージを提示している。画面全体として描かれるイメージは、(多数の切子面に解体されたキュビズム的な浅い空間であるとしても)奥行きのイリュージョンを作り出すが、木目や文字は、平面の上にぺったりとした奥行きのない平面的な像として印刷されている。

(1)では、質感や存在の仕方が、(2)では、表象の秩序のあり方が、根本的に異なるものが、乱暴に画面(表象空間)内に持ち込まれる。また、木炭や絵の具は、紙やキャンバスという土台がなければ「形を保つ」ことができないが、紙は、それ自体として自律して色や形を保つことができる。つまり、二次元である画面の外、三次元空間の中で「形を切り取ったり」「向きを変えたり」「色を塗ったり」という操作が可能である。三次元空間の中で操作がなされ、それが二次元平面へと着地していく。

画面の外の三次元空間内で作業されているとき、その紙片は文字通りそれ自体が物理的フレームであり、支持体であるようなもので、後に貼り付けられる台紙とは完全に自律して存在している。それを台紙に貼り付けるのだから、別の物理的フレームと強引に接合させられているということになる。

(ちなみに、マティスならば、質感の異なる紙を貼り付けたり、既に文字が印刷された新聞紙を貼り付けたりという乱暴なことは決してしないだろう。つまり、ピカソキュビズムとは空間の構築の仕方、というか、発想の根本がまったく違うのだ。)

⚫︎モチーフの固有性が、キュビズム的な空間(という、単一の基底面)の一般性によって完全に解体されてしまう直前にまで行き着いた分析的キュビズムの探究が、空間を、多数のほぼ同等な切子面へと解体するという方向から、複数の異質な基底面の相互貫入という多平面的な作品へと変化していく、その「飛躍」そのものが、この時期のパピエ・コレとコンストラクションには表現され、感じられるようなものになっている。

Pablo Picasso. Guitar. Céret, spring 1913 (画像はMoMAのホームページから)