2023/12/09

⚫︎お知らせをいくつか。

(1)、2024年の1月から5月にかけて「未だ充分に尽くされていない「近代絵画」の可能性について(おさらいとみらい)」という連続講座を、ぼくの回とゲスト講師の回を含めて四回行います(ぼくが三回、ゲスト講師が一回)。

ゲスト講師は大岩雄典さんで、グレアム・ハーマンとマイケル・フリードについてお話しいただく予定です。イベントの第一回は「未だ充分に語られていないマティスピカソについて」というタイトルで、来年1月20(土)に、RYOZAN PARK 巣鴨でやります。これはもう予約が始まっています。

(2)、2024年4月くらいに、四冊目になる単著を「いぬのせなか座」から出版します。小説です。「群像」「早稲田文学」「ことばと」に掲載された6編に、書き下ろし1編を加えたもので、この7編で、連作「トポロジーと具体物」となっています。最初の短編が「群像」に掲載されてから12年(来年で13年)、ようやく本にすることができてとても嬉しい。

(3)、2024年6月に東京で8年ぶりとなる個展をします。これについての詳細は追ってお知らせします。

inunosenakaza.com

なお、これら一連の事柄は、いぬのせなか座と、Dr. Holiday Laboratoryの共催で行われています。

inunosenakaza.com

drholidaylab.com

⚫︎以下は、連続講座「未だ充分に尽くされていない「近代絵画」の可能性について(おさらいとみらい)」の概要文です

全体概要文

 

「近代絵画(近代美術)」という問題が、既に終わった過去の問題なのだとしても、「そこで何がなされたのか(その絵が何をしているのか)」が、あまりにも蔑ろにされ、あたかも近代絵画の達成などなかったかのように物事が進行し、ただ、有名芸術家の「名前」だけが巨匠と持ち上げられてプロモーションを通じて展覧会として消費されてるように思えてしまって、辛い。

 

 一般の人向けのふわっとした言葉はいくらでもあるし、アカデミズムはアカデミズムでそれなりの進歩があるのだろう。しかし、そのどちらでもないところに、充分には言われていない「重要なこと」があるように思う。そして、「近代美術は具体的に何をしたのか」について、ふわっとした言葉でも、ガチすぎる専門的な言葉でもない、その間にあるはずのものが語られて、ある程度の人々の間で最低限のコンセンサスが成り立つような情報の共有がなされないと、「近代絵画」が本当になかったことにされるのではないかという危機感がある。

 

 専門家でもなく、一般の美術ファンというのでもない、少しつっこんだ美術好きくらいの人、あるいは、美術作家。美術に限らず、何かしらの「表現」に関わっている人、そのような表現に深めの関心を持つ人。そういう人にとっても興味を感じることができ、今もなお「使える」ような意味がある何かが「近代美術」にはあるのだということを、なんとかして示し、言葉にすることはできないだろうか。そのような言葉が、あまりにも足りていないのではないか。以上のような意図から、このイベントは企画された。

 

 たとえば、モダニズムの重要な概念に「アバンギャルド」というものがある。あらゆる物事が資本主義によって呑み込まれてしまったような現在において、「アバンギャルド」はどのように可能なのか。あるいは、「アバンギャルド」などという貴族主義的で進歩主義的(で男性中心主義的)な概念は、平等と民主主義と多様性という理念によって破棄されるべきものでしかないのか。しかし「アバンギャルド」に意味がないとすれば「芸術」に意味などあるのか。

 

 この世界で常に発生する「新しいもの」を捉え、その只中で生きる上で「アバンギャルド」という古びた概念に何がしかの可能性が残っているとしたら、それはどのような魔改造の先にあるのか。芸術に、単なる「社会批評」にとどまらない(生を構成する「経験」としての)意味があるのだと主張するならば、それはどのようにして可能なのか。「近代絵画」によってもたらされる経験を題材として、そのようなことについて考えたいと思う。

 

 ここで試みられる魔改造とは、美術史の読み替えのようなことではなく、作品との出会い直しであり、作品との出会いという経験の組み直しのことだ。

 

 また私は、グレアム・ハーマンによる『Art and Objects』という本を、モダニズム魔改造する重要な試みとして共感と共に読んだ。この本では重要な参照項として、モダニズムの批評家であり美術史家でもあるマイケル・フリードが多く引かれ、その読み直しが行われている。そこで、フリードとハーマンの両者についてがっつり語れる日本で唯一の人だと思われる大岩雄典さんに、この本や二人のことについての話を是非ともお聞きしたいと考え、特別講義をお願いした。

第一回「未だ充分に語られていないマティスピカソについて」概要文

 

 マティスが「この作品によってマティスになった」と言える「豪奢 I 」と、ピカソが「この作品によってピカソになった」と言える「アヴィニョンの娘たち」は、どちらも同じ1907年に描かれた。

 

 そして、それから1912, 3年までのたった5, 6年の間に、マティスならば、「赤の調和」や「ナスのある室内」における室内-空間の過激な構築性、「ダンス」や「音楽」のような平面・非中心化の極限までの追求、「セビリア静物」「スペインの静物」における、虚と実、狂乱と静謐の共存といった、熱にうかされたかのような超濃厚な展開があり、ピカソ(+ブラック)なら、分析的キュビズムから、パピエ・コレ、そしてコンストラクションへという、平面-超空間に関する、ある意味で学究的とも言えるストイックで求心的な探究があった。それらが同時代に並行的に行われていたというのは驚くべきことだ。

 

 この5, 6年の間こそが、近代芸術の最も過激で急進的で、かつ、最も実りの多かった時期だと思われる。今でもなお、この時期のマティスピカソというツートップは、越えられない高い壁として存在しており、同時に、この時期のマティスピカソの作品があってくれることで、かろうじて、現在もなお、絵画が、あるいは「面」というものが、芸術にとって意味のあるものであることができていると私は思う。

 

 分析的キュビズムの過激で厳密な探究は、ある一定の成果を得たと同時に、行き詰まり感というか、一種の虚しさに近い感触を生んでしまう地点に辿り着きもした。その時、唐突にピカソがつくった「ギター」をはじめとするコンストラクションによって開かれた地平はとても大きい。ピカソは、絵画では存在しない「物理的な幅」の中に、分析的キュビズムの行き詰まりを突破するための「身動きが取れるスペース」を見出し、分析的キュビズムによって解体されてしまった(フレーズ的、キャラクター的な)「形態」を、モチーフとの類比的な関係によって、再度、作品内に導入する道を開いた。

 

 「幅」によって可能になったのは、立体的なボリュームではなく、同一平面には還元されない複数の基底面の差異によって生まれる多平面性だった。故に、「幅」がゼロにまで圧縮されたとしても、(複数の基底面を貼り合わせるようにして)多平面性が維持されてさえいれば、同様のことができる。これによって、コンストラクションは「幅ゼロの彫刻」とも言えるパピエ・コレとなり、それが総合的キュビズムとなって絵画へと戻ってきた時に、多平面的な絵画となった。

 

 画面を無数の切り子面とその振動へと解体する分析的キュビズムから、複数の基底面をぶつけ合わせることで空間を生む総合的キュビズムへの飛躍。一つの平面の中での無数の切り子面のせめぎ合いから、複数の基底面の相互貫入へ。分析的キュビズムから総合的キュビズムへの飛躍の間には「幅ゼロの彫刻」が咬まされている。この飛躍は近代絵画の歴史の中でとても大きい出来事だと思う。そして、ほぼ同じ時期に、マティスマティスで、ピカソとは異なるやり方で多平面的な絵画を追求していた。

 

 ピカソにはおそらく、物質の質感や触感への高い感度があり、あるいは、ある物質の質感と別の物質の質感との組み合わせによる差異が生み出す効果に対する高い感度がある。対して、マティスには、質感を無化するほどの強い色彩の効果、というか、質感よりも色彩そのものが強く出る表現に関心があるように見える。そのような意味で、空間の構築の仕方は全く異なるのだが、しかしそれでも、ピカソのパピエ・コレとマティスの切り紙絵とは、どちらも「幅ゼロの彫刻」という概念によって構築されているという点では共通しているように見える(画面に木炭でわずかな陰影を描き込まずにはいられないピカソよりも、マティスの方がより徹底して彫刻的であるとは言えるが)。

 

 マティスピカソという、知らない者はいないほど有名で、しかも、しばしばセットで語られる画家を、ここではあえて取り上げ、彼らの仕事を検討することでその達成に「改めて驚く(驚き直す)」ことができればいいと思う。