2023/12/10

⚫︎グリーンバーグの「コラージュ」というテキスト(『グリーンバーグ批評選集』所収)をじっくりと読み返していた。ピカソとブラックのによるキュビズムの追求の中で「コラージュ(パピエ・コレ)」が果たした意味の大きさを分析するテキストで、とても面白く、グリーンバーグが、頑張って、頑張って、作品に迫っていてスリリングなのだが、しかし、あと一歩のところで、その意味を掴み損ねているように、ぼくには思われる。それはつまり、グリーンバーグにとって「平面」とは常に単一の平面(単一の基底面)であり、ピカソやブラックのパピエ・コレで起こっていることもまた、その唯一の平面における出来事として解釈しようとしているというところに無理があるように思われる。

それに対して、コーリン・ロウ+ロバート・スラツキーは、「虚の透明性」というシンプルな概念で、それをスパッと言い当てているように思う(単一の基底面に収束しない複数の基底面の並立が、それを観る者に「虚の透明性」を知覚することを要請する)。ただ、「虚の透明性」という概念は本質的ではあるが、一般的でありすぎて、近代芸術によるさまざまな経験の根底にあるもので、経験のありようをざっくりと示すものではあっても、個別の作品における個別の経験を、そこまで丁寧に拾えるものではない。虚の透明性という概念を踏まえた上で、グリーンバーグがやっているような、執拗な作品分析を、虚の透明性であるという原理の指摘とはまた別に、丁寧になされる必要があると思う。

(「透明性 虚と実」で語られる絵画作品の分析は、「虚の透明性」という概念の説明のためのものであり、それほど突っ込んだものではない。)

グリーンバーグは、平面(基底面、あるいは基底空間)の単一性にこだわるあまり、パピエ・コレやコンストラクションにおける多平面(複数の基底面の折り重なり)という特徴を捉え損ねていると思うが、しかし、さすがに、そのギリギリのところにまで迫ってはいる。以下の部分など、ほとんど多平面とい言っているのに等しいと思う。

《ブラックの最初のコラージュである《果物皿》(ダグラス・クーパー所蔵)の中央上部には、一房の葡萄が因襲的な迫真性のある彫刻的効果を伴って描かれているが、それは、その葡萄が画面から実際に浮き上がって見えるほどである。ここではトロンプ・ルイユのイリュージョンはもはや並行する平面性の間に閉じ込められてはおらず、ドローイング紙の表面を突き出て、その上に奥行きを作り上げているように見える。しかし、紙に糊付けされた壁紙の紙片のどきつい直接性や、窓に施されるレタリングを模造した活字体の大文字の、それほどには強くないというだけの直接性が、葡萄の房を、それが「飛び出さ」ないように画面上の場所へなんとか押し返している。同時に、壁紙の紙片それ自体は、その上に木炭で施された陰影付けの線と斑点によって、また活字体の大文字と関連するその配置によって、奥へと押し込まれているように見える。そして、ついでこれら大文字もその配置によって、また木目模様の物質性との対比によって押し返されるように見える。かくして絵画のどの面も部分も、相対的な奥行きの中で、他の全ての面や部分との間で位置付けを交換し続けている。そうなるとまるで、絵画の中の互いに異なる部分の間に残される唯一の安定した関係は、それぞれが表面に対して持つ流動的で曖昧なそれであるかのようだ。そしてこれと同じことが、多かれ少なかれピカソの最初のコラージュの中身についても言い得る。》

(※『グリーンバーグ批評選集』にはまったく図版がないが、おそらく、下の作品について語っている。)

⚫︎このテキストでグリーンバーグは、パピエ・コレに先んじたピカソのコンストラクション作品である「ギター」を、特権的な作品として評価しているが、しかし、そう言われるだけで「ギター」については具体的に細かい分析がなされていない。この作品をこそ、執拗に分析しなければならなかったのではないかと思う。

⚫︎グリーンバーグを批判して、モダニズム的価値観をゲームチェンジさせたとも言えるスタインバーグですら、実は「単一の基底面」にとらわれていたのではないか。絵画を、「窓」ではなく「フラットな作業台」として捉えたとしても(垂直から水平へ、自然から情報へ)、それが「ひとつの面」であることは変わらない。そもそも、タブロー(絵画)はテーブルと語源が同じと言われているのだし。

そうではなく(そうではなく、ではなく、そうだとしても、さらに)、たとえばラウシェンバーグの作品もまた、キュビズムとは違う形で(単一の基底面に収束されない)「多平面的」な作品と考える方が良いのではないか。

美術批評の流れにいるわけではないコーリン・ロウが、単一の平面という神話にとらわれていなかったことが大きいのだと思う。コーリン・ロウは建築に関わっている人だし、ピカソもいったん、コンストラクションという立体作品を作ってから、パピエ・コレに移行した。三次元的な空間操作を経てから、二次元に戻ってくることが、意外に大きいのではないかと思う。