2002-11-01から1ヶ月間の記事一覧

●近所のTSUTAYAでは、まるで輸入盤CDみたいに、売れ残ったDVD(レンタルで使用したものではなく新品)を980円という値段で売っていたりするのだが、これって流通的にはどうなっているのだろうか。DVDというのは委託販売じゃなくて買い取りなのだろうか。(もし…

イメージの認知と空間の認知

●同じ視覚によるものでも、イメージの認知と空間の認知とでは全くちがう働きなのだと思う。イメージの認知はいわば無時間的であり、具体的な場所をもたず、スケールや距離感はほとんど関係ない。例えば人の顔を、それが顔であり、誰それの顔で、どのような表…

●午前中のはやい時間から制作を始めても、アトリエの側の雨戸を閉め切ってしまえば、思ってたほどには光の状態は気にならない。はやい時間から制作を始め、午後の盛りには風呂に入っている。手にべったりとついたアクリル系の絵具は、乾くと日に焼けた皮膚の…

何年かぶりで、筆を使って制作した

●何年かぶりで、筆を使って制作した。筆を使うと、やはり画面をつくる時の操作性はぐっと増すのだけど、どうしても画面の上を筆が「滑ってゆく」感覚に信用が置けないと言うか、抵抗を感じることになる。これは「筆」が悪いというよりも、ぼくが、自分の作品…

ストローブ=ユイレ『アメリカ(階級関係)』

●ストローブ=ユイレの『アメリカ(階級関係)』について。ドイツ語は分からないので確かめようもないが、この映画の登場人物たちが喋るセリフは、いつもの通りに、恐らくカフカによるテキストと一字一句違いのないものなのだろう。ストローブ=ユイレのリアリズ…

●「巨匠」のような立派な採光の良いアトリエではないので、制作は基本的に暗くなってから行う。蛍光灯の光に決して満足している訳ではないのだが、画面に丁度良く当たるように自然光が入ってくるという環境からは程遠い以上、ある程度安定した光が画面全体に…

●午前6時ではまだ真夜中のように暗いのだが、ここから短い間に光の状態は刻々と変化する。まず、真っ暗だった空がすうっと脱色するように明るくなり(しかし今日は曇っているので青みは射さないグレーのままだ)、暗いなかでぽつぽつとオレンジ色に浮かび上が…

02/11/23(土) ●昨日、国立近代美術館へ行ったのは、実は「連続と侵犯」を観るためというより、同時にやっている「コレクションのあゆみ 1955〜2002」を観るためだった。以前にやった「「未完の世紀・20世紀がのこすもの」を観た時もちらっと思ったのだが、国…

国立近代美術館の「連続と侵犯」ガレリア・キマイラの浅見貴子

●国立近代美術館で「連続と侵犯」、ガレリア・キマイラ(http://www.d8.dion.ne.jp/~chimera/index.html)で浅見貴子・展を観た。 ●「連続と侵犯」というのは、結局、「私」の連続性であり、「私」と「あなた」の境界線の「侵犯」と言うことであるように見えた…

●風が吹いて、イチョウの黄色い葉が。はらはら、はらはらと落ちつづけている。イチョウ並木のつづく国道は、車道も歩道もイチョウの黄色い葉で覆われ、車や人がそれを踏みつぶし、細かくなってアスファルトに貼り付き、その上からさらにまた葉が落ちる。イチ…

ドゥルーズ/ティンゲリー/樫村晴香

●ドゥルーズを読んでいると、何となくティンゲリーの作品を思い出す。 ●樫村晴香は、『ドゥルーズのどこが間違っているか?』で、理論家としてのドゥルーズの基本的な間違いは、起源的-本源的な差異と、現実世界の内部で意味が構成されるための実在的-象徴的…

●夏に泡立つような白い花をつけるユキヤナギのにょきにょきと伸びた茎の先の方の葉っぱのところどころが赤く色づいていて、でもほとんどの葉はまだ緑のままなので、まるで夏とは別種の花を咲かせているように見える。煉瓦敷きの通りのケヤキ並木はすっかり葉…

●シュルルル、シュル、シュルルル、ベリベリベリベリ、というような音をたてて、道路の縁に溜まった落ち葉を自転車のタイヤで踏みつぶして進んで行く。勾配のきつい長くつづく坂を荒い息でペダルを漕いで登る。このきつい坂道を自転車で登るおかげで、日々、…

東浩紀×笠井潔「哲学往復書簡」

●東浩紀×笠井潔による「哲学往復書簡」は、毎回きちんと読んでいる訳ではなくて、たまにちらっと覗いていたという程度だが、東氏の15回目の部分を読んでいて思ったのは、東氏が、いろいろと考え工夫しているにもかかわらず、いつも世代論的な「私語り」に陥…

●ブック・オフで安く売っていたのでつい買ってしまった、ブレッソンの『ラルジャン』をDVDで観て(すごく久しぶりに観た)、その勢いで古い『リュミエール』を引っぱり出して、蓮實重彦の『ラルジャン』論まで読んでしまった。蓮實氏の批評はさすがに滅法面白…

●府中美術館で、第1回府中ビエンナーレ「ダブル・リアリティ」(02/11/16〜03/1/19)のオープニングに紛れ込ませてもらう。こういう展覧会を観ていつも思うのは、「現代美術」って何て幼稚なのだろうかということだ。それは個々の作家の作品が幼稚だと言うより…

●乾燥した落ち葉に覆われた雑木林の土も、少し掘り起こせばしっとりしていて、ヘルメットにニッカポッカの男たちが作業している近くを通りかかると、湿ってすえたような土の匂いがたちこめている。建物の裏手の庭と雑木林の間を縫ってつづく遊歩道には、清掃…

大道珠貴

●ここ数日、大道珠貴という小説家ばかりについて書いているのだが、ぼくは『裸』(文藝春秋)に収録されている3編の小説と、『群像』『文學界』それぞれの今月号に載った小説2編を読んだという以外、この作家について何も知らない。しかし、それだけでこの作家…

大道珠貴『しょっぱいドライブ』

02/11/12(火) ●「文學界」12月号、大道珠貴『しょっぱいドライブ』。この作品は『スッポン』や『ひさしぶりにさようなら』ほどには成功していないかもしれないが、しかし、この小説家が(ぼくが読んだなかでは)はじめて集団のなかの人物たちではなく、そこか…

昨日からのつづき、大道珠貴『ひさしぶりにさようなら』

(昨日からのつづき、「群像」12月号、大道珠貴『ひさしぶりにさようなら』について) ●『裸』に収録されていた『スッポン』でも、自他が未分化なまま集団の内部でのみ生きているような人たちが描かれていたのだが、主人公だけはその集団から離れた場所で「ひ…

大道珠貴『ひさしぶりにさようなら』

●「群像」12月号の大道珠貴『ひさしぶりにさようなら』を読んだ。この作家の小説を今まで4作読んでいるのだが、題材という点ではとても貧しい人で、ほとんど同じような事柄についてばかり書いている。しかし、(全作品を読んでいる訳ではないが)一作一作の歩…

●10/27の日記に書いた大道珠貴という作家の小説が、『文學界』と『群像』の両方に載っていたので購入する。大道珠貴の『裸』(文藝春秋社)は絶対に面白いと思うのに、人に薦めようにも本屋に本がなくて、才能のある作家をちゃんと「売る」気があるのだろうか…

●うとうとと眠りに入りかけ、でもまだ半分は現実の方に意識が残っていて、外の音などは聞こえている状態で夢を見ていた。夢を見ながらも、今、自分は眠りかけていて、これは夢なのだということを意識はしている。ぼくは誰かをヘッドロックしている。誰なのか…

●油絵具の色で言うと、ライトレッドという赤というよりも赤茶と言うべき色に、イエローオーカーとローシェンナー、少量のホワイトを混ぜ、そこにほんの僅かのカドミウム系の赤を加えたような色(ちょっとでも分量を間違えると赤く「染まり」過ぎてしまう)と言…

●風呂に入るなら明るいうちがいい。出来れば午前中。照明をつけなくても磨りガラスを通して入ってくる外光で充分に明るい午前中の浴室には、高感度フィルムの荒い粒子のような光が粒だって満ちていて、浴槽の水面が揺れるピチャピチャという音がエコーのよう…

人形町のvision`sの、井上実・展

●人が何故「絵画」を観るのかと言えば、まず何よりもそれが「よろこび」を与えてくれるからだ。よろこびを与えてくれるためには、それが必ずしも特権的な傑作である必要はない。「良い画家」とはつまり、画面によろこびとしか言えないようなある感情を付与す…

●煉瓦敷きの道に沿ってずっと生えているけやきの並木がすっかり赤く染まり、かさかさと乾燥した落ち葉が風に吹かれて流され、吹き溜まりになった場所に山となって積もっている。建物の並び方によって風の通路が決まってしまい、風に流される葉は自然と何カ所…

●10/31と11/01にゴーキーについて書いたのだが、ぼくのもっているゴーキーの画集のうちの一冊の最後のページに、『Armenian Plows』というタイトルの木材による立体作品のモノクロ写真が載っている。辞書をひくと「 Plow」とは「すき」または「除雪機」と書…

(昨日からのつづき、ゴーキーについて) ●1940年以降のゴーキーの作品は、厳密には抽象とは言えず、風景だったり室内だったりを思わせる空間に、植物とも動物とも人間ともつかない有機的な形態が事物として配置されているようなつくりになっている。(昨日のリ…

昨日からのつづき、ゴーキーについて

(昨日からのつづき、ゴーキーについて) ●1940年以降のゴーキーの作品は、厳密には抽象とは言えず、風景だったり室内だったりを思わせる空間に、植物とも動物とも人間ともつかない有機的な形態が事物として配置されているようなつくりになっている。(昨日のリ…