●ドゥルーズを読んでいると、何となくティンゲリーの作品を思い出す。
●樫村晴香は、『ドゥルーズのどこが間違っているか?』で、理論家としてのドゥルーズの基本的な間違いは、起源的-本源的な差異と、現実世界の内部で意味が構成されるための実在的-象徴的な差異とを(おそらく意図的に)短絡しているところにあるとする。この短絡によって、理論的に絶対に結合できないはずの、基本的組成において異なる圏域にあるもの同士(例えばニーチェとハイデカー、あるいはセザンヌとベーコンとか)とを統合させることが可能になるのだが、それは《どちらかの理論の能力は不当に拡張され、理論(つまり現実的体験に基づき、そこで検証されるもの)はスローガン-幻想に下落する》という結果をもたらす。《Dzにおいて、偽装-強度は異なるものを異なるものへと関係させる境位となるが、そこで異なるものと異なるもは、どちらも等しく分節性-意味作用の次元に属しており、しかしニーチェ/クロソフスキーにおいて、強度とはまさに「全くの無意味」で、異なるものと異なるものが絶対に関係できない場所であり、それは強度と意味作用が、非共役的であるゆえに当然である。》ドゥルーズは、ニーチェやあるいはアルトーにとって「強度=病」として生きるしかなく決して「意味」となり得なかったものを、易々と「意味=隠喩」へとスライドさせる。(『千のプラトー』のような壮大な理論も、このことによって可能となる。)この感じは、ぼくのようにいい加減に読みかじっているだけの者にも確かに感じられるもので、だからこそ、「批評空間」の共同討議で浅田彰の《ドゥルーズは、ゴダールがそのイマージュを生きているようには、出来事を生きていない。(ゴダールは絶対的に肯定するがドゥルーズは哲学者として肯定するだけだ。)》という発言や、あるいは蓮實重彦がドゥルーズを結局は「美の人」だとして囲い込んでしまおうとする発言にも、一定の説得力がある。それに対して真面目なドゥルーズ読みの学者が不当な「レッテル貼り」だとして怒るのも分かるが、それが「レッテル貼り」には違いないとしても、決してそのレッテルが不当なものとは言えないと思う。
●だがドゥルーズを読む歓びとは実はその理論的「間違い」の場所、平気で短絡してしまうというところにあると思われる。前述したテキストで樫村はドゥルーズの特徴を《身体制御回路それ自体のある種オーバーフィードバック的な事件によって、言語回路を経ずに生じる、いわばローカルな身体表層の異変についてこそ、彼の記述は光っている》と書く。《この身体運動の分離性は、意識が部分的に残存しつつ、主体が自己の身体に対して制御を失い受動的になる、半覚醒的-ナルコレプシー的なものであり、(略)この半覚醒性において、意味作用は言葉が記憶=意味内容に十全に回付=変換される課程にではなく、言葉に次の言葉が重なり、ずれ合い、その相互の差異が直接に生み出す共鳴に、帰属する。(略)意味はそれぞれの言葉がもつ記憶にではなく、言葉(セリー)相互の間の表層にあり、それは反復される音楽のテーマ間の差異-変奏、揺れる木の枝の一瞬ごとの差異-移動と同じである。それは差異というより「微分」であり、その概念にこそDzの内発的感覚がある。》ドゥルーズを読む歓びをここまで明確に書いた言葉をぼくは他に知らない。音楽を聴くように、葉擦れの音を聴き木々のざわめきを眺めるようにテキストを読み、書くドゥルーズ。この感覚こそ、例えば、重厚な理論を積み重ねることで「死」を覆い隠し、その覆い隠すという行為によって再び「隠喩」と化した「死」を浮かび上がらせるハイデカー的な重たい官能性とも違うし、「全く無意味」な強度として主体を襲う反復を、その反復の「痕跡」と化して、再帰した悪夢へと零落させることによってフェティッシュと化し、それによって主体に操作可能なものとする(つまり「倒錯」)というクロソフスキー的な官能性とも全く違った、半覚半睡で身体が溶けて散らばったままで漂っているような、独自の歓びを与えられるのだ。
●ドゥルーズの「哲学」が闘争的なものであるとしたら、それは生がひとつの「素朴な歓び」としてあることを抑圧し妨害するものに対する闘争であるはずだ。だからその「闘争」自体が歓びを抑圧してしまうものであるとしたら、そのようなな闘争には何の意味もないだろう。樫村によるテキストが掲載されているのと同じ号の「現代思想」には、ジョルジョ・アガンベンによる追悼文の載せられている。このテキストでアガンベンはドゥルーズの特性を「self-enjoyment(自己享楽)」という言葉で言っている。《「どんな存在も観想する」と、彼は、記憶だけに頼って自由に引用しながら言ったのである。(略)万物が観想するわけです。花や牛は、哲学者以上に観想します。しかも、観想しながら、自分自身を充たし、自分を享楽するのです。花や牛は何を観想するのでしょうか。自分自身の要件を観想するのです。(略)これこそ、自己享楽というものです。自己享楽というのは、自分であるということの小さな快楽、つまり、エゴイズムのことではありません。喜びを生産するような、さらには、そうした喜びがこれからも持続するだろうという信頼感を生産するようなあの元素間の収縮のことであり、固有な要件についてのあの観想なのです。(略)われわれは、小さな喜びなのです。自分に満足するということは、忌まわしいものに抵抗する力を自分自身のなかに見出すことです。》ひとつの生がひとつのささやかな歓びであること。そして生が歓びとしてあることを疎外するような「忌まわしいもの」への抵抗それ自体も「歓び」としてあること。これは幻想でありスローガンであるのと同時に、現実の生の実践であり実験であるようなものだと思われる。