中沢新一「映画としての宗教」の一回目

●昨日読んだ平倉圭の書評が載っている「思想」は実は買ったのではなく図書館でコピーしてきたもので(ごめんなさい、お金がないので)、その時ついでに、なんとなく目についた、「群像」に連載されている中沢新一の「映画としての宗教」の一回目と二回目(2007.1月号、3月号)もコピーしてきた。その一回目だけ読んだのだけど、ホモサピエンスの誕生からハリウッド的スペクタクルまでを一気に通観するあまりに面白い「お話」は、やはり分り易過ぎてどこか眉唾な感じがするけど、旧石器時代の洞窟の壁画にみられるイメージの発達を、三つのレベルに分けているところが大変に興味深かった。
まず第一段階(中沢氏は第一郡と呼ぶ)は、真っ暗な洞窟のなかでの視神経の自動励起によるランダムなイメージに導かれて描かれた、精神の波動や振動をそのまま直接的に刻んだような、抽象的なイメージ。それは具体的な何ものをも表さない、宇宙的な力の反映で、精霊的なものと結びつけられる。一切「意味」を生産しない、純粋に強度としてあるイメージ。
第二段階。原子的振動のような抽象的な運動としてあったものが、その運動の先で偶発的に具体的認知(記憶)による形象と結びつくことで、具象的なイメージが生まれる。例えば、密度のある大きなものの運動というイメージが、実際に昼間出会って印象に残っていた牛の記憶とふいに(短絡的に)結びつくことで、「牛をあらわす」具象的なイメージが獲得される。単体の牛、単体の人のようなイメージが描かれるようになる。
第三段階。一旦獲得された具象的なイメージは、一種の「記号」として定着し、もともとあった波動や振動(の直接的反映)から切り離される。もともとの動きから切れることで、それとは無関係に、記号と記号を結びつけて、新たな「意味」を人為的に生産することが出来るようになる。(自律した記号の次元が生まれる。)例えば、複数の牛のイメージを重ねて「群れ」という意味を生産したり、人と牛のイメージを重ねることで「狩り」という意味を生んだりする。(この段階は、社会や国家、あるいは主体の発生と密接に結びつく。)
中沢氏はこのイメージの生産の三つの段階をそれぞれ、「無から無へ」「無から有へ」「有から有へ」という言い方でまとめる。ポストモダン的な思想では、第一段階の「無から無へ」という、純粋に唯物論的、強度的な次元と、第三段階の「有から有へ」という、意識・記号・象徴的な次元とでは完全に切り離されていて、それを「素朴」に繋ぐことは出来ないとされる。(第三段階では、テクストからテクストへと無限に移り行く間テクスト性とか、言語ゲームとか。第一段階ではアルトー的な強度とか。)例えばドゥルーズの「二重のセリー」というのはそういうことで、しかしドゥルーズはそれらを切り離した上で、意識・記号・言語の次元での「意味」の生産が、純粋な唯物論的、強度的な流れに影響を与え得るかのように記述する。(樫村晴香によるドゥルーズ批判はそこの点にある。)つまり、素朴には繋げないから、アクロバティックに繋ぐのだ。(デリダも結局そういうことだ。)ここで中沢氏は、「発達」という視点を導入することで、ドゥルーズとは逆向きに、「無から無へ」から「有から有へ」と移行する中間地点(媒介)として、「無から有へ」という段階を(一見素朴に)たてている。
これは、精神分析によって描き出される主体の「発達」の過程ときれいに対応するように思われる。第一段階(無から無へ)は、非人称的な欲動のみが作動する次元。例えば、赤ん坊が口をぱくぱくさせたり、手をにぎにぎしたりするような非随意的な運動で、それ自体はいわば自動的で「宇宙的な」運動であり、赤ん坊自身はその動きを意識してやっているわけではないし、何か目的があってやっているわけでもない。ここでは主体や意識(イメージ)は生まれない。
第二段階(無から有へ)は、欲動が(半ば偶発的に)欲動の対象と出会うことで、欲動の主体が生まれる、という段階。無目的になされる手をにぎにぎする動きが、たまたま母の手を握ったり(とはいえそれは母の意思によるのだが)、口をぱくぱくさせる運動が、たまたま母親の乳房と連結したり(勿論これも、母親の意思が介在するのだが)することで(つまり、非人称的な欲動が「欲動の対象」を発見し、それと連結することで)自分自身(欲動の主体)を発見する、という段階。ここで発見される(欲動の)主体(=イメージ)は、あくまで偶発的なものであり、それは対象に出会ったその都度、まったく新たに生起する主体である。だから主体(イメージ)は、対象と連結されている限りにおいて受動的にあるだけで、継続せず、その連結が解かれると主体は消失し、第一段階の非人称的、宇宙的な運動のなかへと帰ってゆく。
第三段階(有から有へ)では、そのような不安定な主体だったものが、継続的、持続的に維持されるようになる段階。偶発的にあらわれる欲動の対象を記号として固定して、継続的、持続的なものとすることで、それと結びつく欲動の主体をも、継続的、持続的なものに移行する。これはフロイトの「糸巻き遊び」に相当する。ここで子供は、自分ではどうすることも出来ない、母親の在/不在という「絶対的な差異」を、記号として操作(構造化)しうる「示差的な差異」(糸巻きの在/不在)へと置き換えることで、自身(主体)を継続的に維持する能動性を獲得する。その時、母親の在/不在としてある世界の直接性とは切り離され、主体(イメージ)は象徴的な次元(記号が自律して、記号自身の原理によって他の記号と結びつく次元)へと参入する。
●ところで、中沢氏はここで、第一段階と、第二、第三段階とを分けて論じている。しかしぼくには、第一段階と第二、第三段階との間にある亀裂よりも、第一、第二段階と、第三段階との間にある亀裂の方が大きいように思われる。なぜなら、「芸術」とは、第一、第二段階に関わることで、第三段階になるとそれは、意識とか言語とか物語とか文化とか社会とか国家とかの問題になってしまうからだ。しかし、中沢氏のように、第一段階(精霊的段階)のみを「純粋な」ものとするのは、われわれが現働化された身体をもってしまっている以上、無理があるように思われる。昨日のドゥルーズの話と繋げると、第一段階はまさに「大地」や「海」に相当する場所で、そこではすくなくとも「私(主体、あるいはイメージ)」は「生きる」ことはできない。しかし、第三段階でもまた、「私(主体)」は別の意味で「生きる」ことができない。第一段階から完全には切り離されていないまま半ば主体化された、そして第三段階的な恒常化した主体からは退行した、そのわずかな隙間の第二段階にしか、「生」の場所はないように思われる。(繰り返すが、中沢氏はここで「段階」ではなく「郡」という言葉を使っている。それは、この三つを発達の段階としてだけでなく、今、生まれるイメージもまた、このどれかに属するというような、イメージの普遍的な分類としても捉えているからだ。それは、ラカンの三界と同様り、ポロメオの輪のような並立したものとして捉えられ、そしてこの三つのイメージ発生のタイプは、後に三位一体の話と結びつけられる。)
エドワード・ヤンが亡くなったらしい。『クーリンチェ少年殺人事件』は大好きな映画で、何度繰り返して観たかわからない。この映画には「男の子のすべて」があると言っても良いと思う。『ヤンヤン 夏の想い出』が遺作となってしまったのだろうか。夜、『ヤンヤン 夏の想い出』をDVDで観た。この二本の映画は、エドワード・ヤンが決してたくさんの作品を作れるようなタイプの作家ではなかったことをはっきり示していると思う。一人の作家の一生の仕事として、この二本の作品があれば、もうそれだけで充分以上のものだろう。この二本で、すべてを出し切っているんじゃないか、という言い方は、決してエドワード・ヤンを卑下することにはならないと思う。ぼくがこれから死ぬまでの間に、この二本の映画を何度か観返すことが出来るということは、すごいことだ。この半月以上、ずっと禁酒していたのだが、今日はなんとなく飲んでしまった。