ドゥルーズの『意味の論理学』は

ドゥルーズの『意味の論理学』はドゥルーズの本のなかでも特に好きなのだけど、この本の第21のセリー「できごとについて」では、ジョー・ブスケという、第一次大戦で負った傷によって半身不随となった詩人について書かれている。ここではブスケの負った傷こそが「純粋なできごと」とされている。ブスケは書く、《私の傷は私よりも前に存在した。私はそれを具体化させるために生まれた》。ある人物が戦争に行って傷を受けるのではなく、「傷」という普遍的な「できごと」があって、それがある人物のもとで顕在化される、と。さらにブスケは書く。《君の不幸によって人間になれ。その感性と輝きを具体化することを学べ。》つづけてドゥルーズは書く。《われわれに起こることにふさわしい者になること、したがって、われわれに起こることからできごとを望み、引き出し、それ自身のできごとの子となり、それによって再生し、生まれ変わり、肉から生まれた身と絶縁することである。》つまり、私に傷が刻まれる(傷によって損なわれる)のではなく、私が、できごととしての「傷」にふさわしいものへと、変化する、ということだ。
この本では、深層(物質-身体-強度)と表層(記号-言語-意味)という二つの異なる次元(二重のセリー)があつかわれている。できごととは、この両者を共鳴させるものだが、しかし基本的には表層の次元で起こるものとされる。戦争によって傷を負うのは深層(身体)であるが、できごととしての「傷」は身体以前の表層の位置にあり、それが傷を負った身体において「具体化」される、というのがドゥルーズの理論だ。できごとによって、「肉から生まれた身と絶縁する」と書かれるのはそのためだろう。深層(身体)の上に起こった出来事(「できごと」ではない)と、表層(記号)とが結びつくひとによって、人に「できごと」としての生をもたらす。これはとても精神分析的で、ここでは表層が、「言語のように構造化された無意識」に相当するとも言える。(無意識というと「深層」のようだが、それがシニフィアンの連鎖としての「表層」として、心の外側にある構造として捉えられる。)しかしドゥルーズはこの本で、ラカンとは異なった色づけをこの構図にもたらす。できごとに貫かれ、できごとの子となった人間は、個別的、主体的な人ではない、非人称的な「ひと」となり、そのような「ひと」は、生物としての、身体として、あるいいは「主体」としての個体性を生きる人とは異なる生を生き、死を死ぬ、とする。
《こうしたひとは、日常を平凡に暮らすひととどれほど異なっているであろうか。それは、非人称的、前個人的な特異性のひとであり、雨が降るように彼が死ぬ 純粋なできごとのひとである。ひとの輝き、それはできごとそのものもしくは第四人称の輝きである。私的なできごとも、集団的なできごともないのはこのためである。個人的なものも普遍的なものもなく、特殊性も一般性もない。すべてが特異であり、したがって同時に集団的であり、特殊であり一般的であるが、個人的ではなく、普遍的でもない。私的な事件でないような戦争はなく、逆に戦争によらず、社会全体を原因としないような傷はない。私的なできごとにはあらゆる座標がある。つまり、社会的・非人称的なあらゆる特異性がある。》
ここでドゥルーズは、「表層」にベルクソンの「潜在性」に近いニュアンスを付け加えているように思える。しかしここで語られているのが「傷」であり「死」であることが、ベルクソンとは異なる。ここでドゥルーズはブスケについて語っているのだ。つまり、戦争によって受けた「傷」を、「私」が《それを具現化するために生まれた》ものとして引き受け、その「傷」によって生きる「ひと」について。《私的な事件でないような戦争はなく、逆に戦争によらず、社会全体を原因としないような傷はない》という言葉が力をもつのは、あくまでこれがブスケによりそって書かれたものであるからだ。そしてさらに、その反転形として、ギンズバーグについてクロード・ロワが書いたテキストが接合される。
《詩人が求める精神病理学は、個人の運命の小さな偶発事故、個人的な障害ではない。それは彼を轢いて不具にしてしまった牛乳屋のトラックではなく、ヴィルノのゲットーで彼の祖先のユダヤ人を虐殺した百人黒騎士団の騎士たちである.....彼が頭に受けた傷は、街のならず者たちの乱闘のときのものではなく、警官がデモ隊を襲ったときのものである......彼が生まれつき耳が聞こえないひとのようにどなるのは、ゲルニカハノイの爆撃で耳をやられたからだ。....》
第一次大戦」という大きな暴力によって受けた傷があくまで「私のためのもの」であるのと対照的に、「個人の小さな偶発事故」によって受けた「傷」は、あらゆる「大きな暴力」による傷と同等なものとされる。ドゥルーズは書く。《すべての暴力、すべての抑圧は、このただひとつのできごとにおいて統合される。そのただひとつのできごとが、ひとつの暴力もしくは抑圧をあばくことによって、すべての暴力もしくは抑圧をあばく》。第一次大戦によって受けたある人の傷も、街でチンピラと喧嘩して受けた別の人の傷も、「できごと」としての「傷」という「ただひとつのもの」のあらわれであり、あらゆる暴力は、ただひとつの「(できごととしての)暴力」を表現する。そこで人は、傷の固有性を超えた、非身体的な「傷のできごと性」を生きることになる。それは《私とは関係のない現在を欠いた時間》(ブランショ)からやってくるものであり、身体的な死ではない、できごととしての「死」もまた、そこからやってくる。そこでは、《死が死に対抗し、死ぬことが死の廃棄になり、死ぬことの非人称性が、(略)死がそれ自体のなかで滅びる瞬間を示し》もする、と。
個と社会(集団)とを結びつけているのは「できごと」という次元であり、それは「できごと」の次元では区別できない一体化されたものであり、そこから分離される。ここまでくると、ドゥルーズ精神分析から大きく離れ、ベルクソンに近づく。だが、そこで消されてしまうのは、例えば「第一次大戦」という、固有の出来事であり、歴史であり、それがもつ固有の因果関係であり、そのような暴力にさらされた一人一人の、固有の事情であり、固有の身体であるだろう。
具体的な「歴史」を失ってまで、ここでドゥルーズは何を得ようとしているのか。おそらく、ブスケのような生を、決して呪われたものとしてではなく、それ自体で祝福されたものであるとして肯定しようとするためだ。ドゥルーズにはおそらく一貫して、一般的にみれば悲惨だったり、みすぼらしかったりする生の有り様を、そのまま、それ自体として肯定するというモチーフがあるように思われる。その生は、純粋にそれ自体の苛烈さによって肯定される。その時に必要なのは、歴史でも分析でもなく「美」なのだ、と、ドゥルーズは思っていたのではないだろうか。というか、ここでドゥルーズは、ブスケの生の苛烈さという「美」に魅了されているということではないか。しかしその「美」は、実はブスケという身体の固有性にこそ宿っているものなのではないだろうか。