●お知らせ。(1)今、出ている「映画芸術」420号に、『ミリキタニの猫』(リンダ・ハッテンドーフ)についてのレビュー(「写生しないミリキタニが写生する時」)を書いています。(この号は、中田秀夫山下敦弘松江哲明沖島勲諏訪敦彦青山真治ジャ・ジャンクーなどの名前が並んでいて、豪華な感じです。)
(2)8月1日発売の「風の旅人」27号に、「反復される度ごとに、身体のなかで新たに生まれるもの」という文章を書いています。あと、前号(26号)に載った「形が生まれること、それによって見えなくなるもの」という文章のなかで、ぼくは《よく、認知科学の解説書に載っているポメラニアンの図がある》と書いているのですが、それは「ポメラニアン」ではなくて「ダルメシアン」だ、という指摘を受けました。ここで訂正しておきます。
●「美」っていうのは結局、それ以上の分析や分節へと向う動きをせき止めるに足りるほどの、強い充実なり快楽なりを、それを感じる人に与えるもの、ということなのだろうか。だから、美は内容(差異や情報)をもたず、その形式的な充実によってのみ、意味を「確定」する。勿論そこには「意味はない」という意味が書かれているわけだが。意味が、《『[「x」についてのx]についてのx』についてのx》というような無限の退行に陥ってしまわないのは、どこかでその意味を「受け止めることによって確定してくれる」他者が想定されて(信じられて)いるからなのだが(人にとって「意味」とはつまり「他者」のことなのだが)、だとすれば、「美」はまさに、「他者」を代行するもの(他者と同じ位置にあるもの)としてあるのだろう。だから、「美」を求める人は、基本的には他者に敵意をもち、「他者(転移)」から離脱し、なんとか「他者」なしに済ませることが出来ないかと欲しているのだろう。(勿論それは、実は他者を必要としてしまっているからこそ、なのだが。そもそも、必要としていなかったら「敵意」など持ちようがない。)
(何故、無限の分析や分節がせき止められ、かりそめの「意味の確定」がなされなければならないかと言えば、それは人の生が「限定」された時間しか持たないからだろう。もし、無限の生があるとすれば、「意味」など必要なくなる。そこで、「美」が「意味はない」という「意味」を確定し、それ以上の分節をせき止めるほどの充実を与えてくれるならば、人は有限の生のなかで、無限の感触に触れることになる。とはいえそれは、つまりは「現在」ということになるのだろうけど。)