●「Jeri-Jeri」って、詳しいことは何も知らないのだけど、PVに映ってるダンスが超絶すばらしい(あんまりたくさんは映ってないけど)。特に、二つ目の動画に出てくる紫のシャツの人のダンスをもっとじっくり観たい(ちらちらっとしかインサートされてない)。もしかするとダンサーとかではなく、そこらへんの人なのだろうか。
http://www.youtube.com/watch?v=OvXGWU11Ol4#t=86
http://www.youtube.com/watch?v=gfKVbQb0OLQ
セネガルの人はみんなこんな風に踊れるのだろうかと思って、「セネガル ダンス」で検索したら下の動画があった。ちょっと感じが違うけど、基本はこれなのかもしれない。サバールと言うらしい。「EXILEの"E"ダンスアカデミー パムサ セネガルのサバールダンスを踊る!」
https://www.youtube.com/watch?v=jz4erRe-Tb0
●「早稲田文学」七号に載っている法条遥論には、ぼくなりに、樫村晴香の楳図かずお論(「Quid ? ソレハ何カ 私ハ何カ」)のなかにある何ものかを継承し、多少なりとも進展させたいという意識があった。以下の引用は樫村晴香の楳図論より。
≪(…)小説は存在について象徴的なものの閉域内部で考え、あるいは考えるふりをする。それは私や人間の「意味」、つまり私や人間の性行為、私や人間の生産活動、私や人間の病気や死の、意味を語る。夏目漱石の時代でも今日でも、人間の意味はこうだと言い、意味はないと言い、こうすれば意味を忘れるくらい気持ちいいと言い、やはり忘れられなかったと言い、何とかしてくれと言い、そんなことは言うなと言い、何も言いたくないと言う。≫
≪「机は何か、コップは何か」という問いかけが馬鹿げていても、「私は何か」「人間は何か」が可能なのは、それが「問いかけること」の祖型、いわば原‐問いかけであり、そこで問われているのは問いかけの行為そのものであり、そこには世界の分節と言語の手前で、原初的他者に向かおうとする力動が刻印されているからだ。「私は何か」は、発声が言葉と意識に変わる最初の場所の痕跡だが、それは同時に声が向かい、探し求めた最初の他者の痕跡でもある。そして「私は何か」が意識の中へと再び現れ、主体の「今」に回帰する時、その他者は墓標となり、遺跡となり、絶対他者の彫像のように、その問いの受け手となる。≫
例えば『わたしは真悟』で、発した主体が消滅した後も受け手を求めて世界をさまよう「私はあなたを愛しています」という言葉(機械)によって喚起されるもの、あるいは「エヴァ」で、綾波レイが「私は死んでも、代わりはいるもの」と言う時、それは決して独り言(気持ちがふっと漏れてしまった)ではなく、明確に「シンジに向けて発せられた言葉」であり、その発語時に綾波の内部で起こっている出来事は何か、というようなこと、そのようなものたちから発展する主題(それは「わたしというクオリアの生成」の場、そして「死への恐怖が生まれる」場であるとぼくは思う)が、法条遥というあたらしい作家のおいてどのような形であらわれているのか、について書きたいと思い、それが樫村テキストにある「存在の怪異」ということにつながると思うのでした。
「樫村の劣化コピーだろ」、とならないようにがんばりましたが…。