2024/04/28

⚫︎黄金町のYPAMフリンジセンターで、Dr.Holiday Laboratoryのイベント「無かったことを無いことにする」。横浜のイベントだと、終電をそんなに気にしなくていい。終電を気にしなくていいということが、どれだけ気楽なことか。

⚫︎基本的に、山本伊等さんの発表が中心にあり、時々、客席からの協力的介入と妨害的介入があり、適宜、俳優たち(ロビン・マナバットさん、石川朝日さん、油井文寧さん)や宮崎玲奈さん(演劇カンパニームニ・直前のイベントの登壇者)と山本さんとの対話が挟まれるという感じ。

⚫︎Dr.Holiday Laboratoryの前作、『脱獄計画(仮)』は、戯曲のレベルでは、俳優が上演の場で何をやろうが、どんな逸脱をみせようが、戯曲がそれを先回りして取り込んでいて、それらはすべて「あらかじめ戯曲に書かれていた」ことになってしまうという構造を持っていた。上演を観るより前に戯曲を読んでいたので、この戯曲はとても面白いし、すごく完成度が高いが、しかし、これを「上演する」ということはどういうことなのだろうかという疑問(危惧)を持っていた。しかし上演を観ると、戯曲で予想していたものとはぜんぜん別の方向から弾が飛んできたみたいな感じでとても驚かされた。

おそらく二つの側面があって、一つは、俳優が何をしようが、あらかじめすべて戯曲に書き込まれている(俳優は何をしても戯曲に取り込まれるしかない)という側面で、しかしもう一つは、戯曲に何が書かれていようが、実際に舞台の上にいるのは俳優で、俳優がいなければ何も始まらないという側面。我々が見ているのは戯曲ではなく俳優の身体や声だ。それは戯曲とはまた別の位相にある出来事だろう。この二つは一見、基本的に排他的で相入れない。Aが成り立つならBは成り立たず、Bが成り立つならAは成り立たない。しかしこの相容れない裏と表とが、見方によってくるくる反転する、ということはある。排他的であるのだとしても、どちらか一方には決められない。というか、別のレベルのあり方として両者並走している、と言うべきか。そういうあり方が面白い。ぼくはそのように観たし、感じた。

ただ、宮崎玲奈さんは、『脱獄計画(仮)』の戯曲が、俳優のあり方すべてをあらかじめ取り込んでしまうような構造を持っていることがどうしても腑におちないというか、納得できない感じで、この点について、山本さんとの間に緊張をはらんだやりとりが結構続いた。このやりとりを興味深く聞きながらも、ぼくには宮崎さんがどうしてそこまでこだわるのか、その感覚はよくわからなかった。

だが、この件について、客席にいた山本浩貴さんが、仲介というか、問題の整理をするような発言をして、それで、なんとなくそういうことなのかとわかったような気にはなった。

現代の演劇を作る人たちの中で、「戯曲(テキスト)」というものが、そこに参加するすべての人が平等にアクセスすることが可能な「根拠」のようなものとして機能しているという側面がある、と山本浩貴さんは言う。実際に、演劇を作る現場では、理不尽な権力の格差のようなことが発生しがちだ。たとえば、演出家が、恣意的な「自分の好み」に過ぎないようなことを俳優に強いる、というようなことが起こる。このとき、「戯曲」を根拠にすることで、俳優は演出家が押し付けてくるものが恣意的なものであることを示して(この戯曲をそのように解釈することは適当ではない、など)、それに抵抗することができる。このように、平等の根拠として「戯曲(テキスト)」がある、と。そのように考えるのならば、平等の根拠としてあるはずの戯曲が、俳優の完全敗北があらかじめ書き込まれているようなものであることに納得できないというのも、わかるように思う。

(それとは別の問題として、稽古の現場で俳優から生まれた「創造的な何か」を、作・演出家が「自分の手柄」として取り込んでしまう、ということは、おそらく実際によくあって、山本さんの戯曲からそれが想起される、とかいうこともあるのではないか。)

だがおそらく、Dr.Holiday Laboratoryの演劇が作られる現場において、戯曲は「根拠」のような強い位置にないのだと思われる。根拠というより出発点のようなもので、とりあえず「これ」があるんだけど、ここから何が考られる ? 、という感じで共同作業が始まるのではないか。

それ(作品の構造)とは別に、「(無自覚なままで維持される)現場での権力関係」というものがあり、それに対する批判的検討が、現代の演劇を行う人たちの間においてある程度共有された問題としてある、ということなのだろう。だが、山本伊等さんが問題にしている「権力関係」は、それとは少し違う場所にある。宮崎さんと山本さんの問題意識は、一見近いところにあるように見えながら、しかしそれは基本的に別のものなのではないか。おそらくこの食い違いが、戯曲の支配構造に対する感覚の違いとして現れていたのではないかと思った。その違いが見えたことが面白かった。

⚫︎イベント後半は、Dr.Holiday Laboratoryの次回作の「原案」となるタルコフスキーサクリファイス』の徹底分析。

ここで山本さんは、『サクリファイス』に出てくるミニチュアが、現実とミニチュアの間のスケールの違いを相対化するように扱われていることに注目する。つまりミニチュアによって「この現実」そのものがミニチュア化される感じがあることが指摘される。そして同様の感覚が『惑星ソラリス』からも感じられることから、そのように見方の妥当性が主張される。今までタルコフスキーをそのようにみたことがなかったので、この指摘はとても新鮮だった。

(Dr.Holiday Laboratoryで、ミニチュアといえば『シャッセナンビ』が気になっている。「シャッセナンビ」が「しあせな日々」であるということを初めて知った。)

「この現実」のミニチュア化は、『サクリファイス』に描かれている「世界」そのものが、演劇的に再演されているという感覚に繋がる。そのようにみると、郵便配達人のオットーが、アレクサンデルに世界の回復のために犠牲になる役を割り振り、家政婦のマリアに世界を救う魔女の役を割り振っているようにみえるようになる。あるいは、オットーとマリアが共謀して、アレクサンデルを「世界の犠牲」の役に追い込んでいるようにもみえる(マリアは渋々、魔女の役を強いられているのかもしれない)。この世界は何度も反復され、核戦争は何度も起こり、起こるたびに「無かったこと」になる。こうなると、『サクリファイス』がだんだん『脱獄計画(仮)』化してくる。

アレクサンデルが世界の罪を被り、彼の犠牲で核戦争が無かったことになったのならば、彼が犠牲になったというその事実そのものがこの世界から消える(未然問題と、非記憶問題)。世界を救うことで世界から消えてしまう「まどか⭐︎マギカ」のまどかのように、あるいは、世界線が移動したことを世界で唯一知っている「シュタインズゲート」のオカリンのように。

『脱獄計画(仮)』から、さらに先に進むとするならば、山本さんの次作のモチーフは、「世界を救うことによって世界から消失したアレクサンデルの犠牲」をどのように「救う」のか、ということになるのだろうか。