2024/04/27

⚫︎RYOZAN PARK巣鴨で、保坂和志「小説的思考塾 vol.16 with 山下澄人」。バタバタ忙しく、「文藝」に掲載された山下さんの3年ぶりだという新作はまだ読めていない(六月の後半に読む)。保坂さんは、山下さんと話すととても楽しそう。以下は内容の紹介ではなく、話を聞いていてぼくが思ったこと。
⚫︎小林秀雄の「感想」の話。最初に書かれている「蛍をみて、おっかさんだと思った」というところと、「駅のホームから落ちたのに無傷だった」という話はとても面白いし、多くの人が話題にするが、「感想」本体については、あまり誰も言及しない。あまり面白くないから。ぼくも、新潮社から出ている小林秀雄全集は「感想」が掲載されている「別巻1」だけ持っているが、最初のその話のことしか覚えていない。そもそも、最初の何回分かしか読んでいないと思う。あまり面白くないから。小林秀雄本人も、うまく書けなかったと思ったから本にしなかった。
「感想」は、ベルクソンについての本ということだが、おそらく、ベルクソンについて書きたかったというより、「蛍をみて、おっかさんだと思った」という経験について書きたかったのだろう。ただ、小林秀雄には、それをどう書いたらいいのかわからなかった。かなり以前の「新潮」に、小林秀雄の講演が収録されたCDが付録としてついていたことがあった。そこで小林秀雄は、ベルクソンの講演について話している。ある人が、夫が戦死した夢を見る。後に、夫はその人が夢を見ていた同じ頃、同じ状況で亡くなっていたことを知る。フランスのある高名な医者は、その話を、誰もが近親者の夢を繰り返し見る。そして、たまたま事実と一致した「その夢」だけを覚えていて、他の大多数の夢は忘れるのだ、と解釈する。しかしベルクソンは、それは問題の立て方が間違っているとする。夢が事実と一致していることが問題ではなく、夫が戦死した夢を、生々しくリアルに経験したということが問題なのだ。わたしが「痛い」と感じることに主観も客観もない、ただ「痛い」という直接経験があるのだ、と。
この論のはこびもまた、話の面白さ(リアリティ)の芯からズレていっているように思われる。「蛍をみて、おっかさんだと思った」ことと、その前年に小林秀雄を母を亡くしていることとは、どの程度関係があるのか。ある人の夢のリアリティが、夫がじっさいに戦争で亡くなっていることと、どの程度関係があるのか。たとえば母親が存命中に、酒に酔ってホームから落下しても無傷だったとき、「おっかさんに助けられた」と感じるのだろうか。いや、感じることもあるかもしれないが、その「直接経験」は、亡くなっているときに感じるものとどのくらい違うのか。
この講演で小林秀雄は、ベルクソンのある講演、ある婦人、フランスのある公明な医者、と、出典を示さずに、あたかも人から聞いた噂話や都市伝説のような語りで語る。ある婦人が語っていたと、ベルクソンが語っていた本を読み、それをここでわたしが語っている。伝聞の伝聞であり、その伝達経路も明かされない。それを聞いている聴衆にとってはさらに伝聞である。ある婦人の「直接経験」が何重にも隔てられた伝聞によって語られる。このような「語り」は、「ある婦人の夢」のリアリティを捉えるのに、ある程度は有効であるように思われる。とはいえ十分とは思えず、この技法があまりに使われまくっている現代ではなおさらそう感じる。
「感想」の最初に書かれたエピソードは、今でもなお面白い。今でもなお面白いということは、いまでもなお、その面白さを十分に解明するやり方を我々は知らないということだと思う。
⚫︎山下さんが、劇団をやっていたとき、劇団の仲間とはあまり親しくならないように気をつけていたという話はとても面白かった。緊張感を保つとか、なあなあにならないとかいうことではない。「よく知らない奴の方が面白い」という理由だ、と。よく知らない奴はあやしげに見える。ちょっとした仕草や、もの言い、目付きなどが、いちいち「変」に見えて、引っかかるし、気に障る。その違和感が面白いのだが、親しくなってしまうと、そのひとつひとつ、いちいち「変」だと感じていたものが、その人を構成する「その人らしさ」のようなものに慣らされて着地してしまって、気に障らなく(「変」だとは感じなく)なってしまう。納得してしまう。しかし、変だと感じ続けて(気に障り続けて)いた方が、そこから色々と面白いものが引き出せる。
カフカはそうやって書いている、と。世界と親しくならないし、他人とも親しくならない。親しげにならなずに、気に障り続けながらも、その「気に障る」ことそのものを面白いと感じる。感じ続ける。寛容さとは、こういうことではないかと思った。
(知り合いで、まったく喋らない奴がいた。しかしあるときから、その人が不意に「あら奥さん」と言うようになる。唐突に、さまざまな場面で、繰り返し、「あら奥さん」と言い出すような、おかしな人になる。しかしエキセントリックな行動は、その人にとって大きな契機となったのか、その人は徐々に「普通の人」になっていく。それに従って、自分の記憶から徐々に薄れていき、消えた、と。その人への興味がなくなったとかでなく、いつの間にか記憶から消えているという感じが面白い。)
⚫︎山下さんの乾いた寛容さの感じは、その「親切主義」からも感じられる。新興宗教やマルチに入っている人の何割かは、信仰によってではなく、親切心で入っているに違いない、と。そんなもの少しも信じてはいないけど、あなたがそこまで熱心に勧誘するのであれば、まあ、入ってみてもいいかなあ、と。知っているおばちゃんは、新興宗教に9つも入っている。そんなことは親切心でしか説明できない。この「親切心」という要素は、多くの社会分析から欠落しているものだなあと思った。
⚫︎山下さんの親への感情も興味深い。自分の親は本当に酷かったし、酷いことを山のようにされた。しかし、今となっては面白かったことだけを思い出す、と。というか、その酷さを面白がれる、ということだろう。妹と話すと、今でも「あいつらだけは絶対許さない」という強い怒りがあって、そのことに驚く、と。山下さんはなぜ、そうなれるのか。なぜ、多くの人は山下さんのようになれないのか。
⚫︎人に理解されなければいけないと思うのは、自分に対する「呪い」だし、人に理解してもらいたいと思うことは、他人に対する「煩悩」だ。それはまったくその通りだと思う。しかし、その「呪い」や「煩悩」から多少でも自由になるためには、それが「呪い」であり「煩悩」であるということがある程度は共通了解となっているような友人(たち)が必要だということはあるのではないか。質問にあった「独り善がり」問題もそうなのだが、「人に理解されないようなことをするのは独り善がりに過ぎない」という硬直した思考の紋切り型(呪い)が、この世界の中で強い力を持って作用してしまっている以上、独力でそれに抵抗するのはとても困難だ(その考えは、そもそもその「土台」がおかしいのだが)。ただ、「芸術」というものは、そのような「友人」としてこの世界に存在していると考えることもできる。だからまず、「芸術」にアクセスできるかということがとても重要なこととしてある。だがそこには「運」の作用も大きい。
(芸術は、見上げるものではあっても屈服するものではなく、教師や父や母というより、尊敬すべき友人のようなものではないか。)
⚫︎あるジャンルの底上げがなされ、全体的にそのレベルが上がるというようなことが起きると、互いに拮抗するような優れた人たちが何人も出てくるというのではなく、なぜか、一人、突出した人が出てきてしまうという問題がある。たとえば、大谷翔平とか藤井聡太とか井上尚弥とかのことなのだが(あるいは、Googleとかamazonのことでもあるが)。これは本当は望ましいことではないのではないか(こうなってしまうこと自体が「失敗」なのではないか)。なぜ、群雄割拠ではなく、天下統一がなされてしまうのか。これはこの世界では物理法則のように揺るがないことなのか。深刻な問題だと思う。
⚫︎メモに、「徹夜 根津甚八」と書いてあるのだが、なんのことかまったく思い出せない。