2022/10/07

引用、メモ。『世界は時間でできている』(平井靖史)、第七章「時間と自由」より。最後の章。

決定論(すべて必然)にも非決定論(偶然があり得る)にも「自由」はない。

(…)世界のなかに、仮に法則によって決まっていない事柄があったとしても、それは自由ということを意味しない。自分の行動がランダムに生じても、私たちはそれを自由行為とは呼ばないからである。》

《決まっていても自由ではないし、決まっていなくても自由ではない。実はこれが、現代哲学で主流の見解なのである。》

(…)実はベルクソンもまた、(…)必然的な決定を主張する立場だけでなく、これに対抗して偶然の余地を擁護する立場に対しても、結局のところ自由を認めることはできないという診断を下している(…)(…)どちらの立場も、時間と意識存在をどう捉えるかという点で不適切な概念を採用してしまっており、そのために、自由を取り損なっている。》

(…)ベルクソンは人間がなす行為なら何でも同じように自由だとは考えていない。むしろ自由とは例外的なケースであるということ(…)だと認めている。》

分岐モデルの問題点

《人生の「岐路」という常套句そのままに、私たちが生きていく時間の歩みを線状に表現し、「とり得た可能性・選択肢」を枝のようにして添えるこの表象の、どこに問題があるとベルクソンは考えたのだろうか。》

上の図は329ページからスキャンしました

《よくなされる説明は、こういうものである。こうした分岐モデルは時間を空間化している。(…)だが、自由なる決断は流れる時間のなかでなされるものだ。(…)だが私は、(この説明は)多くの重要な論点によって補われる必要があると考えている。》

《補いたい論点は三つある。第一に、(A)決断する自我自身が、決断のプロセスを通じて変容すること。第二に、(B)自由な決断はアオリスト的(点状)の時間ではなく未完了相の時間を要求すること。第三に、(C)一回性と現象性の制約のためにどんな予期も現実を先回りできないということ。こうした三点が折り重なって、「時間の空間化」批判へと結実している。》

(…)「複数の選択肢さえあれば自由だ」という考えにもベルクソンは首肯しない(…)。「選択肢」には罠が山ほどある。日常の場面の多くでは、その存在そのものが後知恵の仮構であることもしばしばだ。》

(『試論』からの引用)実際には、そこには二つの傾向も、二つの方向さえなく、一つの生きた自我が存しているのだが、この自我は、まさに躊躇することで生き、展開していくのであって、かくして遂には、熟れすぎた果実のように自由な活動がそこから落ちることになるのだ。》

(『試論』からの引用)われわれが自由であるのは、行為が自らの人格の全体から発出し、これらの行為が人格の全体を表現する場合、である。》

(A)自我の変容

(…)私たちの自我は、決断のプロセスを通して、変化する。変化することによって決断する。》

(…)ある日Xに傾いていた気持ちは、別な日にはもうリアリティを感じられなくなっている。Xの意味が変わっているだけでなく、自分のほうも、そう感じる自分へと変貌を遂げているのである。》

《重大な決断に時間がかかるのは、それだけの時間を要する変化が自分におきているということなのだ。》

(…)私たちは一方に傾いたあとでまたゼロ地点に戻るようなヤジロベエではない。一方を真面目に考えたなら、そのことで私の心の地形はわずかにでも変わってしまう。もう一方に向き合うことで、また水の流れは変わる。》

(…)一巡目で答えが出せないのに何度も反芻しているうちに答えが出る。もし途中でプログラムもデータも変わっていないとしたら、これは因果律を破ることである。因果律が破られていないとすれば、私たちにおいては、プログラムかデータの少なくともどちらかが変わっているのでなければならない。》

(引用者の感想。↑これはまさに機械学習の過程そのものではないか。)

(B)未完了相

《分岐しているかいないかにかかわらず、時間を一本の線で表象する場合には、(…)順次決定モデルが暗黙のうちに想定されている。つまり、瞬間は隣接する瞬間を決定し、その瞬間は次の瞬間を決定していく、そういう考えである。(…)各時点は、他の時点から独立に定義可能である。こうした時間の捉え方を、(…)アオリスト相の時間像と名付けておいた(…)。》

ベルクソンの折り合いモデルにおいては、決定は、全体(期間)と部分(瞬間)の双方向的な折衝を通じて行われる。それはアオリスト相ではない、新しい時間のアスペクト、未完了相(「つつある」の時間)を要求する。(…)順次決定モデルのように、各要素からボトムアップに決まるものではないし、逆に、全体(…)から一方的なトップダウンで決まるものでもない。》

(…)持続は下の階層を左から右に流れるのでも、右から左に流れるのでもない。それは中央の時間的内部に属しており、強いて言えば、この図に対して鉛直方向に決定が進んでいく。》

《通常の哲学的時間論で扱われる時間的延長(B系列、C系列)も時制(A系列)の区別も、一本の直線で表している時点で、どうしても順次決定モデルの制約ないし影響を受ける。そうしたモデルを採用している限り、「分岐における決定」はパラドックスに陥ることを運命づけられている。》

自我の変容への三つの段階/自動的再認・注意的再認・想起

《まずは、本能および自動的再認の世界からだ(…)。進化ないし習慣が作り上げた、感覚-運動の緊密な連携のおかげで、身体は滞りなく自動的な活動を営んでくれる。(…)オートマトンとしての日常である。指揮をとるのは運動記憶で、階層3の過去全体は人格質(…)としてバックグラウンド的に浸透するばかりである。》

《続く注意的再認は記憶への扉を開く重要な一歩だが、デフォルトのイメージ投射の段階では、事情はさして変わらない。運動図式はやはり自動的に特徴抽出を行い(…)、タイプ的イメージはすっかり出来上がった水路のおかげで瞬時に投射される(…)。つまり、階層3から一部のイメージ記憶が前景化され利用されるわけだが、凡庸なタイプ的イメージを純粋にボトムアップ的に指定しているだけである。持続は開いても記憶の時間的内部は開かない。》

《そこで注意および想起の出番である。運動図式の線引きから変えてみる必要があるだろう。(…)記憶も拡張せねばなるまい。あれこれ思い返してみるのだ。》

《こうして記憶の時間内部が開く。答えを模索して記憶の諸平面を経巡っては、逆円錐はいままで試みたこともない新たな編成・システム化に取り組むだろう。記憶の回転を主導する水路の組み直しも伴うはずだ。人格の地形図は大きく書き換わる。(…)これが自由行為の条件となる。ところが、線状の時間表象は、時間階層の拓くこうした「内部」を表現しえない。》

非決定性がある必要はない

(…)ベルクソンはそもそも、自由を擁護するために非決定性に訴えてはいない(…)。》

(…)「非決定性(…)」は多義的なので、ここでは必要な二つの意味を区別する。一つは、一般的な用法において決定論と対立する立場(決定論)で用いられ、必然性に対する偶然性、つまり「そうでないことがありうる」ということを指す。これを様相的非決定性(あるいはたんに非決定性)と呼ぼう。もう一つは、一定数のベルクソン自身の用例において、流れる経験のなかで決まりつつある「折り合い」状態を指す。こちらを(未完了相に由来するので)アスペクト的未決定性(あるいはたんに未決定性)と呼ぼう。両者の違いは、前者が、現実を一つの状態とカウントした上でそれに並ぶものとして別な可能性を並置するのに対して、後者が、同じ一つの現実のうちに(空間的のみならず時間的にも)ローカルに共存している未決定性であるという点である。本セクションでターゲットにしているのは前者の様相的非決定性である。》

(…)(ベルクソン)は決して、「行為に非決定性が混じりこんでいるから予見は失敗するのだ」とは述べていない。(…)むしろ、完全な予見は本人による同時的な確認に帰着することをもってして、(先回りという意味での)予見は成り立たない、と述べているのだ。これは裏を返せば、暗に、当の本人においては、まさに「すべての先行条件」を内的に体験することを通じて、最終的な行為が一つに決まるということをむしろ示唆してさえいないだろうか。》

(…)それは、「他でもよかった」ような恣意的な何かではない。「他の可能性」によって代替できない「ひとつの事実(…)(…)である。その事実性が自由の徴であるときに、「他でもありえた」かどうかはなんらポイントにならない。そしてその「事実」が何から引き出されたのかと言えば、私の「全過去」であり、それらの階層をまたぐ相互作用である。》

(C)予見不可能性/決定論の脅威の解除

(…)ベルクソンはこの(決定論)脅威が、①「過去から現在の状態が一つに決まる」という事態そのものからではなく、②「以前からそう決まっていた」、および③「私と関りのないところで勝手に決められている」という、決定の二種類の外在性からくると考えている。②が現在ではなく過去から決まっているという時点的な外在性で、③が私ではない何かによって決められているという人称的な外在性だ。》

ベルクソンは、そこで現に、①の命題には手をつけないまま、順番に、予見の議論から②と③を切り外してみせる。》

(…)予見対象となる行為者をピエールとし、予見する観察者をポールとする。ピエールの決断は「同一の過去セット」---それは現在と「共時的」である---に依拠しなければならないから、予見をピエールの生前に開始することはできない。また、早送りは相互浸透の効果を変えてしまうから、予見をピエールの行為より先に終わらせることはできない。つまり、予見者であるポールは、予見対象であるピエールとおなじ期間にわたっておなじ内容を経験しなければならない。これが②時点的な外在性の切除に対応する。》

(…)最終的な行動を予見しようというときに、先立つある時点にピエールが抱いている数多の心理状態を「将来への希望」「親とのわだかまり」「裏切りへの不安」などという具合に、ただ名目的に列挙したところで無駄である。「この状態の強度ならびにこの状態が他の諸状態に対して有する重要性」(…)を評価できなければならないからである。そして、ことがクオリアである以上、その評価は実体験による他はない。そして現象質の力学(…)においては体験することは変容することと切り離せない。つまり「知ること」は「決めること」に介入してしまう。ゆえに誰かがそれを知るなら、その人はピエールではなく他ならぬ自分の行為を知ることになるのである。これが③の人称的外在性の除外である。》

(…)私の答えが私の全過去によって一つに決まるとして、(…)②と③の切除にちゃんと成功していれば、(…)あらかじめ「決まっていた」のでも、何か別ものによって「決められている」のでもないならば、そこで「決めている」のは「今の私」をおいて他にないからである。》

回顧的錯覚(回顧は自由を追い越してしまう)

(…)〇〇なのだからこうする他なかった---(…)前からずっとその行為を引き起こす申し分ない理由だったように思える---推理小説を二度目に読む時のように。しかし、そのとき人は、その理由が理由になるように自分が変わったことを忘れている。しかも、未完了相の時間は、終わってしまえばアオリストへと畳まれる。人が理由を過去向きに遠く投げすぎるのはそのためだ。》

《確かに、その行為には「ある種の」必然性がある。私は、理由もなしにそれをしたのではなく、それをするべくしてそれをしたのだから。だが、その理由は、前の時点でも後の時点でも理由にならなかった。つまりその「必然」は、決断の時間から前に移しても後に移しても必然ではなくなる、そういう時間依存的な様相なのだ。》

「時間の空間化批判」の内実

(…)人格とは、過去の経験(その現象面を含む)が一定の仕方で編成された多様体に他ならないからである。その意味で、ベルクソンの考える自由行為とは、人格を書き換える変容的な経験である(…)。この変容は、その時点での過去全体の参照を要求するため事前に定義できず(…)、現象質の力学を要求するため外から定義できない(…)。以上から、「予見不可能」な「新しさ」が帰結する。ベルクソンが「創造性」と呼んでいるのはこれのことである。》

《「時間の空間化」という批判がどういう趣旨のものであるかが、こうしてようやく具体的に理解されるだろう。それは単に「図を使っているから」という話ではない(図ならベルクソンも使っている)。また、あらゆる時間表象について向けられる批判でもない。それが批判されるのは、対象を特徴づけている固有な条件---問題の変容が時間的内部を要求する変容であり、そこで起こる相互作用はその現場である未完了相現在から持ち出せないという事実---に無頓着で、当該の問題の理解を致命的な仕方でミスリードするためである。》

すべては一つの遅延からはじまる

(『思想と動き』からの引用)時間は何をなし得るだろうか。素朴な良識はこう答えた。時間は、すべてが一挙に与えられるのを妨げるものだ、と。時間は遅延させる---いやむしろ時間とは遅延のことだ。それゆえ時間は、練り上げの仕事(…)でなければならない。とすれば、時間こそが創造と選択の担い手ではないか。時間が実在していることは、事物のうちに未決定な何かが存在することの証明であり、時間とはこの未決定性そのものではないだろうか。》