国分寺スイッチポイントで百瀬文「山羊を抱く/貧しき文法」。観て、ぽかーんとしてしまったが、後からじわじわくる。面白い、とか、傑作、とかいうより、味わい深い。複雑で、微妙。笑えるか、引くか、考え込むか、どれに転ぶか分からない。滑稽で、挑発的で、暴力的。この作品は、ある倫理を問うような寸劇にも見えるのだけど、その倫理だけを問題にして済ませられないような、様々な欲望やコノテーション、そしてその転移が絡み合っている。微妙で、味わい深いとは、そのような意味でだ。CGの作品が同時にあることで、事態はより複雑になっているように思う(このCG作品の気持ち悪さもじわじわくる)。コミュニケーションを行う、様々な異なる経路が問題にされているという主題的な意味では、これまでのこの作家の作品とつながっているが、その表現の仕方が変化したと言えるのではないか。
帰ってから検索して、例の絵をみつけた(この作品を観た人は、きっとみんな検索する)。
この作品はおそらく、かなり詳細な分析が可能、というか、かなりいろんなことが「言える」と思う。それは、どうとでも言えるということでもあり、この作品がウナギのような掴みづらいということだと思う。
●『ほしのこえ』と『トップをねらえ!』について書くために、『高校数学でわかる相対性理論』(竹内淳)、『数学は相対論を語る』(リリアン・R・リーバー)などを苦労して読んでいる。こういうのを「泥縄式」とか「付け焼刃」という。
ベルクソンアインシュタイン問題に関しては、『合理性の考古学』(金森修・編)に収録されている「ベルクソン特殊相対性理論」(永野拓也)を読んでいる途中。エリー・デューリングの『ベルクソンアインシュタイン 時間論争』が翻訳される予定はないのだろうか。