●次の「ユリイカ」の幾原邦彦特集の原稿(『ユリ熊嵐』論)の著者校正をした。エリー・デューリングの相対化される運動の話と、それを受けての清水高志のハーマン読解から、グレアム・ハーマンのテキスト(「代替因果について」)にやや細かく入っていき、そこからE・ヴィヴェイロス・デ・カストロにつなげ、そられすべてが『ユリ熊嵐』において合流する、というテキストを書いた。今「きてる」固有名を節操なく投入して適当に繋いだ感じにみえるかもしれないが、『ユリ熊嵐』は実際にそういう(「適当な」という意味ではない)作品だと思う。
http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3070
●そういえば、「早稲田文学」に掲載されたテキストを父親が読んだらしく、「お前の書くものは木を見て森を見ずだ」とか言ってきて、何も分かっていないくせにとムッとしたのだが(取り上げている対象作品についてもまったく知らないし)、まあ、でもほとんどの人はそう思うのだろうとも思った。