●ChatGPTの助けがあれば語学弱者でも外国語の本が読めるのではないかと思った時に最初に読みたいと思ったのがグレアム・ハーマンの『Art and Objects』で、今、読んでいるのだが、それがけっこう読めそうだとなった時に次に頭に浮かぶのがエリー・デューリングの『Faux raccords : la coexistence des images』(「見かけの繋がり違い:イメージの共存」ChatGPT・訳)で、でもこの本は電子書籍化されていないようだ(ChatGPTに聞くと「電子書籍化されています」と例によって嘘をつくのだが…)。エリー・デューリングの本はまったく電子書籍化されていないようで、これにはアメリカとフランスとの事情の違いとかもあるのだろう。ペーパーバック版を日本のAmazonで買おうとすると8500円を超えている古本ならある。紙の本でも、写真を撮って、テキストスキャンをして、コピペすればなんとかなるだろう。
(古典や、ある程度評価の定まったものは、ちゃんとした人に翻訳してもらった方がいいに決まっている。でも「同時代のもの」はそれではまどろっこしいのだ。)
ただし、グレアム・ハーマンの文章とは違って、エリー・デューリングはちゃんとした翻訳者が訳したものでもかなりの難物になるので、ChatGPT先生が理解可能なように訳してくれるか不安があり(ちなみにChatGPTは、フランス語を訳してもらおうとすると「日本語に」と書いているのにしばしば英訳をしはじめたりした)、読めるかどうか分からない本にいきなり8500円出すのはちょっとキツイかなあと尻込みしてしまう。
試してみようと思って、ネットでエリー・デューリングのテキストを探してみたが、ハーマンと違って、彼のフランス語はネットにはあまりないようだ(共作だが英語ならあったし、フランス語の対談もあったし、英語で話す動画もたくさんあったが、フランス語で「書かれた」ものが見つからない)。
エリー・デューリングを日本語で検索すると、「プロトタイプ論」のことばかりしか出てこなくて、勿論それはそれで重要だと思うが、元々博論がベルクソンとアインシュタインとポアンカレの人で、つまり「時間(あるいは時空)」の哲学が本筋の人だと思うのだが、日本の紹介でなんでそこがもっと出てこないのかと常々不満に思っているのだ(『思想』のような、なかなか手にいれるのが難しい雑誌にはそっち系の論考も翻訳されてはいるが)。
●『Faux raccords : la coexistence des images』へのレビュー(フランス語)。
●日本語で読めるものとしてこの本について触れているテキストは、福尾匠の以下のもの以外をぼくは知らない。
あるいは、
《(…)彼の主に映像作品を扱う論文集『つなぎ間違い:イメージの共存』(Faux raccords : la coexistence des images(2010, Actes Sud))も取り上げつつ論じる。本書は論文集であり体系的な叙述がなされているわけではないが、ここでは見通しをよくするために幾つかの概念を取り上げそれらの関係を仮設的に規定することを試みる。
冒頭の世界地図の例に戻る。球形の地球の全面をそのまま一望することは不可能だ。われわれはつねに最大で半分の面積しか視野に収めることができない。しかし、球面にある種のトポロジカルな操作を加えればそれは可能になる。紙風船にハサミを入れて全ての面が見えるようにテーブルに置くことを想像してみると、どうやっても切れ目同士の間隙や表面のたわみを完全に取り除くことができないのがわかるだろう。上に説明した二つの図法はいわば、地球にハサミを入れて表面を引き延ばす際のルール、あるいは「フォーマット」なのだ。
デューリングにおける「切断」のひとつの例として『つなぎ間違い』におけるヒッチコックの『めまい』論(p. 29-80)を挙げることができるだろう。 ここでは「空間のタイプ(type d’espace)」という彼の概念が切断のプログラムに対応するものとして考えられる。ここで彼は『めまい』という映画作品を統御する空間のタイプとして、「メビウスの輪」というトポロジカルな形象を取り上げる。つまり、いわば『めまい』というオブジェクトは、世界をメビウスの輪に投射したもの、あるいはメビウスの輪というフレームによって見られる世界として考えられるのである。そして、マデリンとジュディの反転と同一性というパラドックスが、デジャ・ヴュにおける知覚と記憶の反転(ベルクソン)に重ね合わされることで、空間のタイプはたんにオブジェクトのトポロジカルな性質を指すだけではなく、そのなかで流れる時間の固有性を含意してもいることがわかる。
あるいは、アメリカのテレビドラマ『24』における分割スクリーンをめぐる論考(p. 155-183)をもうひとつの例としてあげることができる。「リアルタイム」で進行するサスペンスのなかで同時的な複数のシーンが共存し、かつそれらの相互の連絡が行われるのを提示する分割スクリーン。こうした現代的な状況は即時の(immediate)コミュニケーションを可能にし、空間的距離を抹消するものとして危惧されたり称揚されたりするものであるが、ポール・ヴィリリオに典型的なこの「空間の消滅」という考えをデューリングは批判する。分割スクリーンの効果はむしろ、同時的なシーン相互の連絡の有限性によって発揮される。切れてしまう通信、電話しながらの裏切り行為といったコミュニケーションの有限性だけでなく、画面外空間の増殖による「縁(fringe)」の重ね合わせが、この作品における分割スクリーンを「パノプティック」という素朴な一と多の関係でなく、絶えざる切断と接続によって露わにされる「断片による全体化」を打ち立てるものにする。(*なお、この点については、マルチスクリーンを用いた映像作品の批評である拙論「In (Search of) a Lost Image, Lost In a Stage:伊藤高志『三人の女』 や」詳しい)
この二つの例からわかるのは、「切断」はなんらかのトポロジカルな構造(空間のタイプ)に沿ってなされ、それによって切断されたものがプロトタイプであること(あるいは、プロトタイプは自らを切断とみなすことによって新たなビジョンを投射するものであること)。空間のタイプは、メビウスの輪のような歪みを持ったものであったり、分割スクリーンのように断片的なものであったりするが、パースペクティブの共存の形式として提示されること。おのおののパースペクティブは、固有の外部(縁)を備えており、空間のタイプはそれぞれのアナクロニックな干渉の様態を規定するものであること、である。》