⚫︎東海大学で講義・講演。『セザンヌの犬』に収められている短篇のうち一つを選んで、それについて話してほしいというオーダーだった。指定した作品を事前に学生に読んできてもらうので、学生が読んでいることを前提に話してほしい、と。さらに、あまり一般的とは言えない形式の小説なので、プレ読書会を開催して下準備までして下さっていました。課題作は「ライオンは寝ている」。
創作学科の学生に向けた講義だったので、なぜ、そして、どのようにして、「このようなもの」を書いたのか、というところから、最初にあったモチーフや影響を受けた小説などについて、かなり具体的に話をしたつもり。質疑応答の時間もたっぷりあって、けっこう深いところまで話せたのではないかと思う。
最初に、ここからならば何か発展させることができそうだという予感を含んだイメージがあり(しかし、それより先の展開は一切考えず)、それを入り口として、一文、一文、あるいは一語、一語、自分に対して無茶振りするように、あるいは、それ以前の文を書いた自分の裏をかくようにして、ひたすら文を重ねていく。先のことは考えない。考えてしまったら、それを裏切ることを考える。
一つ文を書いたら、それに対して次の文を置く。その二つの文に対して三つ目の文を置く。そうしたら、三つの文に対して四つ目の文を置く。書いていくうちに「すでに書いた文」の量が増えてきて、その全体に対して次を考える。最初からそこまで読んでから、その次を考える。だから次第に、「自分が一体何を書いたのか」を読む(読み取る)という作業にウエイトがかかっていく。先を書くために、自分が書いた文を何度も何度も読み返すことになる。自分が書いた文を読解し、解析しながら、その次について考えている。
(だから、自動書記みたいな書き方とはまったく違う。)
学生から、先のことをまったく考えていないのに、ある構造が作られ、さらにそれを裏返す(反転させる)ということができるのはなぜなのかと質問された。それは、先のことは考えていないが、今まで書いてきたところは、何度もしつこく読み返しているので、そこまでがどういう状態になっているのかは(意図してそうしたわけではないにせよ、結果としてどうなっているかを)、読み取ることで把握しているから、それに対して次の手を打つように書くので、それができる。意図的にある構造を作っているのではなく、結果として出来た(出来かけている)構造を読み取って、それをさらに進めたり、壊したり、裏切ったりする。
⚫︎家から駅に向かうのと反対方向のバスに乗るのは中学生の時以来かもしれない。東海大学は予想以上に近かった。自転車で行ける距離だ。大学までは近かったが、大学の正門から講義をする棟までは遠かった。大学の敷地は広くて、ただ広いだけでなく建物の配置とか道の広さとかがゆったりとしていて、とても気持ちが良い。こういうゆったりとした配置の空間で一定の時間を過ごせるのはとても貴重なことだ(まったく勉強しなかったとしても)。