●『マルコヴィッチの穴』(チャーリー・カウフマン)をDVDで、実ははじめて観た。ジョン・マルコヴィッチの脳のなかに入り込んでしまうというところまではけっこう面白かったけど、ここからこれをどう展開させるのだろうかと期待しはじめたら、そこから先はありがちなアメリカ型の神経症的アーバンコメディのパターンになってしまっていてがっかりした。こういう展開はほとんど「手癖」じゃないかと。
●九百字の原稿をまる一日かけて書く。短い原稿はとにかくゆっくり書くのがいいということに最近気づいた。
まず、一行ずつゆっくり考えながら書き、意味のひとまとまりが書けたら、表現を切り詰めるように考えてそれを出来うる限り短く書き換える。そしてそれに対して次の意味のひとまとまりを書き、それもまた出来うる限り短く書き直す。そうして書き進めながらも、折々に、そこまでの文でさらに短く出来るところを気づいた時点でかなり大胆に削ってゆく。こうやって書いてゆくと、短い制限量でもフレームの限定を(収束地点を)それほど気にすることなく、遠い道のりを歩くかのように考え、書いてゆくことが出来る。直線的、単線的ではない思考の過程を織り込める。字数制限がタイトなので多少精度やつっこみの深さ欠けるのは仕方ないとしても、書くことによって、「書く」ことがなければ(書く以前には)考えなかったところまで考えが進む、ということはなんとかクリアーできる。
最後まで書いてから短く詰めるというのとは、書き出しから書き終わりまでに何重にも織り込められている宙づりでの距離が違う。最後まで行ってから折り返すのと、最後までいけるか分からない状態に長く留まって回り道を進むのとでは、大きく違う。考えたことを書くというより、書くことが考えることなので、書いては直し、書いては直しする過程のなかで考えることが駆動しはじめる(短い文章だとしばしば、考えが駆動しはじめる前に書き終わってしまう)。「書いては直し」と「書いてから直す」とではずいぶん違う。
ただ、非常に効率が悪いのと、自分の書いた短い文をひたすら何度も読み返すうちに迷路にはまりこんで方向を失う危険があるというのが問題だ。あと、こんな風にして書かれたものは、人をはねつけるような、文に入ってゆきづらいような抵抗感があるのではないかとも危惧するのだが。