磯崎憲一郎による「アウトサイドレビュー/平成二十二年大相撲五月場所、八日目」(「文學界」七月号)。磯崎さんにとって書くこととは、生身の磯崎憲一郎が、書く人としての磯崎憲一郎に(あるいは磯崎憲一郎というスタイルに)ひたすら呑み込まれてゆくという過程のことなのではないかと思った。実際、磯崎さんの書く文は、「磯崎憲一郎の書く文」であって、それが小説と呼ばれるものであろうとエッセイであろうと、本質的にはほとんど変わりはないようにみえる。大相撲のレポートとして書かれたこの文の連なりが、小説のなかに紛れ込んでいたとしてもまったく違和感がないようだ。ここで書かれた《私》とは、磯崎さんの小説の主人公である《彼》と同じくらいに磯崎憲一郎であり、また、同じくらいにそうではないようにみえる。ここでレポートされている「平成二十二年の五月場所の五日目」は、カレンダー上でこの日と特定できる日に実際に起きた出来事のレポートである以上に、「書かれた文」のなかで起きた出来事のように思われる。あるいは、ここで唐突に声として介入してくる《相撲通の榎本君》が誰なのかだいたい見当がつくのだが、しかしそれは実在する《相撲通の榎本君》である以上に、磯崎さんの小説でいつも、ふいに介入してくる誰ともつかない誰かの声-言葉でもあるように思う。
実際。この文章は「大いなるマンネリ」とでも言うべきものに貫かれている。磯崎憲一郎の読者であれば、また「夕日」か、また「遙か遠くからゆっくりと近づいてくる死」か、また「母親」か、また「声だけで姿の見えない子供」か、また「少年時代の実家」か、また「犬」か、あるいは、また「対話が成立せずに流れのなかに唐突に侵入してくる声-言葉」か、と、この作家の小説に馴染みの要素が次々と出てくるのにややうんざりさえするのではないか。なにも、大相撲のある一日をレポートした短い文章に、こんなにも磯崎的主題をてんこ盛りにする必要はないのではないか。やりすぎなんじゃないか。あるいは、こういう短いレビューの時くらい、ちょっとは違うことを試みればいいのではないか、と。もしかすると、生身の磯崎憲一郎もまた、そんなことをちらっとは考えたかもしれない。しかしおそらく、書く人としての磯崎憲一郎が、あるいは、磯崎憲一郎というスタイルが、それを許さないのではないだろうか。
だから、磯崎憲一郎が相撲について書くというのは、たんに生身の磯崎憲一郎が相撲好きだからということではないだろう。磯崎憲一郎が相撲について書くのは、磯崎憲一郎というスタイルが相撲を必要としているからであり、同時に、相撲が磯崎憲一郎というスタイルを必要としているからであるのだ。そこには、磯崎憲一郎という個人の相撲好きを越えた、もっと本質的なつながりがあるのではないだろうか。だからこそ、プロスポーツであり、現世的なビジネスであり、様々なダーティーな問題も指摘される現実の大相撲が、磯崎憲一郎によって「書かれる」ことによって神話的な次元にまで高められるのだと思う。
磯崎憲一郎にとっての「書くこと」が、磯崎憲一郎というスタイルに呑み込まれることであるとすれば、(言ってみればエイリアンに体を乗っ取られるようなものなので)それは生身の磯崎憲一郎にとってはとても窮屈で、厳しいことではないだろうか。エッセイやレポートでさえも、磯崎憲一郎には、磯崎憲一郎のように書くことしか許されていないということになるのだから。しかし、そもそも磯崎さんにとって「小説家」であるということは、それを肯定的に受け入れるということなのではないだろうか。