●今日は配本の日だ、と頭の隅で思いながら、いつも通りに喫茶店でたんたんと用事をこなす。しかしこの用事も二、三日ちゅうには終わる。もう残り僅か。
●とはいえ、ぎりぎりの進行で余裕はないのだが、先が見えてすこし気が緩んで、昨日の夜、『臨床社会学ならこう考える』(樫村愛子)をふと手にとって開いてしまったら、引き込まれて朝方まで読んでしまった。たとえば、「享楽」を、こんなにわかりやすく、こういう角度から説明した文は、他に読んだことがない。
《「享楽」とは主体の解体の瞬間である。が、それは、ある情報体が別の情報体へとシフトし主体が書き換えられ生成される瞬間でもあり、それゆえ、このとき主体は「消滅する=ない」ともいえ、新しく生成されるともいえる。このように解体と生成の瞬間に起こっていることは認知不能であるため、事後的に「現実的なもの」(表象不能なもの)として措定されるのである。》
さらに
《「幻想のマテーム」では、快感原則の閉じた回路を中断する「対象a」が記述され、「失われた対象」である「対象a」が外傷的不快において享楽を再現している。しかし幻想は享楽を事後的に意味論的に再構成しているために、循環回路によってしか描かれず、構造生成の局面はここには描きえず、享楽をネガティブなもの-外傷として記述することになる。》
●関係ないかもしれないが、ある主の生成論が退屈なのは、生成が同時に解体であり、そこに必然的に切断-ブランク(享楽、外傷)が発生するという側面が記述されないからではないだろうか。たとえばセザンヌ、たとえば磯崎憲一郎は、この切断-ブランクに対して特に敏感な作家だと思われる。「過去は、過去だというだけでどうしてあんなにも遙かなものなのか(記憶による引用なのでいい加減です)」というような意味のことを磯崎憲一郎が言う時、そこには時間がつくりだす無数のブランクが想起されているのではないか。
●朝方に寝たのだが、眠りに入ってすぐに地震で起こされ、しばらく眠れなくて、八時頃にようやく眠れたと思ったら、九時過ぎには親からの「本が届いた」という連絡で起こされた(見本の一冊を昨日送っていた)。
●午後、気分転換と眠気覚ましに川原を散歩した。傾いた太陽が対岸を正面から照らすような角度で光が射しているから、向こう岸がやけにくっきりと浮かび上がって見える。そのことで、対岸がぐっと近づいているようにも見え、また、あまりにくっきり見えるので、それがスクリーン上の映像のように感じられ、かえって遠く遙かにも感じられるという、不思議な感じだった。その対岸を、やけにゆっくりと自転車がはしっていた。風が強い。空が澄んでいる。
●そしてまた喫茶店へ。
●ここからは宣伝。『人はある日とつぜん小説家になる』(http://www.seidosha.co.jp/index.php?%BF%CD%A4%CF%A4%A2%A4%EB%C6%FC%A4%C8%A4%C4%A4%BC%A4%F3%BE%AE%C0%E2%B2%C8%A4%CB%A4%CA%A4%EB)には、四つの作家論(磯崎憲一郎柴崎友香福永信岡田利規)と、三つの作品論(青木淳悟「このあいだ東京でね」、古井由吉「白暗淵」、大江健三郎「蟖たしアナベル・リィ 総毛立ちつ身まかりつ」)があり、その間に、「はじめに」「とちゅうで」「おわりに」という文章が挟まっています。作家論、作品論は、あくまで作品に寄り添うかたちで書かれていますが、「はじめに」「とちゃうで」「おわりに」には、もう少し抽象的な、小説に限らず、「作品」というものに接する時のぼくの姿勢や考えが書かれています。以下、「とちゅうで」の一部を引用します。

わたしの見る夢において、わたしがする経験の強さは、その夢そのもの以外の外的な要因によっては保証されず、その夢の経験以外の場所に着地点をもたない。今朝方の夢にあの人が出てきたのは、昨日その人に会ったからかもしれないし、夢のなかで凍えていたのは、部屋が寒かったからかも知れない。しかしそのようにして外側からの説明によって原因が分かったところで、その夢の質そのものは説明されない。部屋が寒かったから凍える夢を見たという言い方は、夢のなかで凍えていたその寒さの感触、その経験を少しも解明していない。昨日あの人に会ったから夢に出てきたという言い方は、夢のなかであの人に会うことの出来た喜びを、少しも説明しない。
だがここで重要なのは「わたし」ではなく、夢や作品からわたしを通して結像された「何か」であり、わたしが夢や作品を通過することで経験した「何か」の方である。そうだとしても「わたし」がついて回らざるを得ないのは、わたしが「わたし」という素材しか持たないからであり、夢や作品の経験という、夢や作品それ自体にしか根拠や着地点をもたないものが、わたしという貧しい限定を通してしか顕在化されないからだ。
わたしが作品を読むのではなく、作品を読むわたしとは、作品を結像させ、作品を立体化させるいくつもの装置の一つでしかない。「生きられる」のは私ではなく作品であるが、作品はそれが誰にしろ「わたし」を通すことによってしか生きられない。わたしにおいても、わたしという限定された、限界をもつ装置によってしか、作品は立ち上がらない。「わたしにとってのこの作品」と言わざるを得ないのは、「わたし」が大切だからではなく、わたしが「わたし」という位置に限定されているという、わたしが必然的にもつ貧しさによってだ。


作品に触れている時、「わたし」とは、作品によって見られた夢にしか過ぎない。
わたしが「わたし」という貧しい素材しか持たないということは、作者と観者、作家と読者の双方に等しく分け持たれている。読者が、わたしという貧しさにおいて小説を読むしかないように、作家もまた、わたしという貧しさにおいて書くしかないはずなのだ。それは、小説を書く作家も、小説を読む読者も、どちらも、とある晩に小説によって見られた夢の一つに過ぎないという点で共通しているということを意味している。


「とちゅうで/作品の夢がみられる場所」