磯崎憲一郎「終の住処」(「新潮」6月号)を読んで打ちのめされる。というか、打ちひしがれる。サラリーマンとしても忙しい仕事を抱えているはずの磯崎さんが、何故こんなにも密度の濃い小説を、こんなにも次から次へと書けるのか。磯崎さんによって書かれてきた今までの小説さえ色あせて感じられてしまうほどに、強力で濃厚で正確だと思う。それに比べて、自分は一体何をしているのか、と打ちひしがれるのだが、しかし、そのように感じることの出来る小説を読むことが出来るのは幸福なことだ。この小説のあまりに「正しい」と思われる一文一文は、ぼくが今まで生きてきた(もうすぐ)42年の生涯の「間違い」のいちいちを告発するかのように重く、深く、ぼく自身に撃ち込まれてくるのだが、しかしそれは、もう素直に「負け」を認めるしかないという圧倒的な正しさに貫かれているように思われるので、それを受け入れることが出来る。
郵便受けに郵便物が落ちるゴトンという音で目が覚め、封筒を開くと「新潮」が入っていて、(次の「新潮」に新作が載るということは聞いていたので)早速読み始めるのだが、3、4ページ読んで、これはちょっとただごとではないと思って、一旦読むのをやめて、顔を洗って歯を磨いてから、「新潮」を鞄につめて部屋を出て、意味もなく電車で行ったり来たりしてぼんやりと過ごしながら覚悟を決めて、電車を下りて、喫茶店で最後まで一気に読んだ。
磯崎さんの小説は、常に、女-妻、子供、母をめぐって書かれているように思う。それらのものが主題となっているというよりも、それらの他者たちとの接触によって生じる摩擦や、他者たちのつくる強力な重力や磁場こそが、その磁場に巻き込まれることこそが、書くことの動力源となっている、と言う感じだろうか。「終の住処」では、今までの作品のなかで、それが最もベタに、最もあかさらまに、最も嫌らしく、最も無防備に、最も強力にあらわになっているように感じられた。ある意味、同じことばかりを繰り返し書いているとも言えるのだが、その濃度はどんどん濃くなってきており、その正確さも、どんどん増してきているように思う。ところどころあまりに生々しく(嫌らしく)、しかし、とことどころのあまりに大きな飛躍に驚かされる。
磯崎さんの小説を読んでいつも思うのは、それが、ぼくが知っている限りの同世代(同時代と言うべきなのか)の作家(小説家に限らず、あらゆる分野の作家)が無意識のうちに共通して持っている現代という文脈、気分、あるいは、共通して陥ってしまっている罠、から自由であるように感じられるということだ。しかし、ここで自由という言い方はおそらく間違っていて、むしろ真逆で、「ぼくら(という言い方はぼくは大嫌いなのだが)」に共通して作用している磁場とは全く別の、もっと巨大で、深く、強力な磁場の作用のただ中で、その力につき動かされ、引き摺られるるように書いている、という感じなのだと思う。「別の磁場」のなかにいるという意味で、孤高の作家なのだと思う。
「終の住処」は、今までの作品とは随分と書き方が変わっているように思われる。文と文との接続は一見滑らかだ。思わず同じところを何度も読み返してしまう「世紀の発見」とは異なり、一気に最後まで進むことが強いられているように感じられた。ある意味、すごくベタで、マッチョな(いかにも「中年男性」による)私小説に近いようにもみえる。しかし勿論、ベタな私小説とは根本的に異なっている。より巧妙に、決定的な形で切断、飛躍、跳躍がもたらされる。つくづく、真の意味でユニークな、孤高の作家だと思う。きわめてありふれた主題を扱いながら、他の誰にも似ていない(確かに、ムージルと深く共振するものは感じられるのだが)。
とにかく、あまりに強力な経験で、自分が何を読んだのかあまり憶えていないくらいだ。今は、凄い、打ちのめされた、としか言えない。
●「終の住処」を読み終えたら、もう日は暮れていて、また今日も夕日を見に行けなかった。