●丸の内の東京會舘で、芥川賞直木賞授与式。まず、スーツを着て部屋を出るという経験が、ぼくにとっては、コスブレして出かけるような感覚だった。後から「新潮」の矢野さんに、「偽日記を読んで、買わなくてもいいのに、と思った、スーツじゃなくても全然大丈夫ですよ」といわれたのだが、会場に着くとスーツのおっさんたちがひしめていて、もし普通に私服で言ったら、この時点でかなりビビッていただろう(普段、有楽町駅で降りることは、ギャラリーや映画館に行くので頻繁にあることなのだが、国際フォーラムよりもお堀側へ行くことはほとんどなのいだ)。
会場に入ると既に選考委員のスピーチがはじまっていたのだが、すごい人で先がまったく見えない。スピーチがどのくらい先でやられているのかもわからないくらいの人の厚さ。中央を突破するのは無理っぽいので、会場の隅の方から、隙間をみつけて少しずつ前に出る。磯崎家、北村家と書かれた家族席のあるところまで前にでるが、そこには大きな柱があって、そこからでは壇上が見えない。まるで星飛遊馬を見守る「姉ちゃん」みたいに、柱の影から顔を出して壇上を見るかたちになる。
磯崎さんの受賞スピーチは、こういう場では場違いに感じられるほど、ストレートでベタなものだった。ベタなことを堂々とベタに言い切る強さというのは、年の功であるとともに、磯崎さんの胡散臭いキャラの力であると思った。磯崎さんは、「会社関係の人や友人、親類を含め八十人くらいの人を招待した、壇上からその人たちの顔を見ていると、生きているうちに自分の葬式を見ているようだ」といっていた。それを聞いて、ぼくの書いた「磯崎論」に足りなかったのは、このような死への近さというか、「時間はすでに限られており、死はすでに目に見える場所にある」という感覚なのかもしれないと思った。
会場には目が回るほどたくさんの人がいた。料理を一皿受け取るにも並ばなければならない。あきらかに関係者とは異質な、ケバいお姉さんたちが数多くいて、場所から考えておそらく銀座のお姉さんたちだと思うのだが、そのお姉さんたちが、小説は読んだことないけど、ぼくでも名前と顔は知っているというような有名作家の先生のまわりをずらっと取り囲んでいるという光景を何箇所かでみて、こういうのって、テレビドラマのなかだけじゃなくて実際にあるのか、と驚いた。有名作家というより有名人といった方がいいような人たちをたくさん見ることができた。なかでもダントツに格好よかったのが渡辺淳一だった(おそらく…、勘違いでなければ)。渡辺氏の小説は読んだことがないし今後も読むことなどないと思うが、本人はとにかくかっこよかった。渡辺氏のまわりにはお姉さんたちはまったくいなくて、スーツ姿のおっさんに取り囲まれていた(渡辺氏は「イメージ通り」の和服姿)。それもまた、こんな場所でがっつくほど不自由してませんよ的な余裕が感じられるのだった。繰り返すが、これは渡辺氏の書くものがどうかということとはまったく関係ないことです。あと、山田詠美の頭が半端ではなく爆発していて、それもすごくかっこよかった。
二次会の会場へ向かう途中、新潮社の須貝さんから「すごく広いスナックみたいな、ちょっと面白いところです」といわれたのだが、そのとおりだった。まるで五十年代の日本映画に出てくるような店。生演奏つき。こういう店があるのが銀座という場所なのか。