●二十日の磯崎憲一郎さんとのトーク(http://www.junkudo.co.jp/newevent/evtalk-shinjyuku.html#20100220-2shinjuku)にむけて、あらためて「ペナント」(『終の住処』所収)を読んだ。とうとつな転換と、逆方向への動きや矛盾した事柄という相反するものが逆接や反転によってつなげられてゆくという独自の磯崎ロジックで組み立てられている点はかわらないが、磯崎作品に強い重力を生じさせている子どもと女(妻、母)が登場しないという点、そしてなによりも、ずっと記憶の充溢(記憶の重さ)によって書いていた作家が、おそらくはじめて記憶の欠如(穴、ボタンの消失)に向かって書いているという点で(しかし簡単にそうとも言い切れないのだが…)、この作品はいままでの作品と異なるように思うので、その点について磯崎さんに聞いてみたいと思った。
あと、磯崎さんの小説ではじめて「沼」がでてくる(磯崎さんの出身地には大きな沼がある)。
訂正。『終の住処』のはじめの方にも沼がでてきます。しかし、『終の住処』をはじめて読んだ時はまだ手賀沼を見ていなかったし、もっとスケールの小さい沼を想定して読んでいました。
●二十日は、『人はある日とつぜん小説家になる』の「とちゅうで--作品の夢がみられる場所」に書かれていることについて、突っ込んだ話がしたい、と磯崎さんから言われています。当日、「とちゅうで」のコピーが会場で配布される予定です。そしてその時、作品の具体例として、チェーホフの「聖夜」(岩波文庫の『子どもたち・曠野』所収)と、「美女」(同じく『ともしび・谷間』所収)について話しましょう、ということになっています(それ以外のことはまったく決まっていないし、打ち合わせもしていません)。どちらも、とても短い小説なので、いらして下さる方は読んでから来てくださればうれしいです。