●油絵の具には、物質としての扱いづらさだけでなく、長い歴史によって編み込まれた無数のコノテーションもあり、気むずかしくて面倒だ。値段が高いというのも、扱いづらさの一因であろう。
抽象表現主義は、アクリル絵の具やアルミニウム系の塗料によって、そのような新しい、歴史の重さから切り離された絵の具によって可能になった、という側面もある。印象派が、チューブ入り絵の具によって可能になった、というような。しかし、そのようなテクノロジーの問題ではない。それは、たまたま使える条件が何だったかということでしかない。
マティスは、彼以前には考えられなかった領域にまで、油絵の具の可能性を広げている。しかし、マティスにとって問題は、「油絵の具の可能性の拡大」なんかではない。たんに「よい絵」を描くということだけが問題で、その時、彼に与えられていたのが油絵の具だったから、それを使う。
とはいえ、マティスと油絵の具との結びつきは「偶然」でしかないとしても、それは交換可能なわけではない。人は、偶然に出会ったもののなかに自分を見つけ、そこに自分をつくりあげる場を見出す。あり得たかもしれない無数の可能性は、出会ってしまったとたんに運命へと変化して人を限定する。その時にマティスは、油絵の具の特質やコノテーションの体系に把捉される。だから、その内部から、それを超え出るものを作り出すことが要請される。マティスが自らの信じる「よい絵」を実現しようとする時、「油絵の具の可能性の拡大」を通じてしか、油絵の具の内部に留まりながらそこを逸脱してゆく、というようにしてしか、それは実現できない。
しかし、だとしても、問題はあくまで「よい絵」を描くことであって、油絵の具にあるのではない。マティスはそのことを決して間違えないからこそ、からだを壊して絵を描くことが出来なくなるという危機の時に、「切り紙絵」というまったく新しい、より高度にマティス的なやり方を発見し、そこへと移行可能になるのだ。
「よい絵」というのは、決して絵画の問題ではない。それは、この世界にある「よい何か」のことであって、絵画というジャンルなどどうでもいい。しかし、そのよい何かに、たまたま「絵画」として出会ってしまい、自らを画家と限定してしまった以上、その「よい何か」は「絵画」を通じてやってくることになる。だから必然的に、絵画の問題が、絵画の歴史が、問題とならざるを得ない。それはそう簡単には交換できないし、そこを誤魔化すわけにはいかない。しかし、そこに問題の核心があるわけではないことは、一時も忘れてはならない。