●昨日の夜中から起きているので、昼前には頭がどんよりしてきたのだが、外があまりに良い天気なのでこのまま部屋で用事をしているのは勿体ないと思って、出掛けることにした。昼前からだともう千葉にある川村記念美術館にまでは行けないから、汐留の松下電工汐留ミュージアムのマティスとルオー展に行くことにした。
予想したよりもずっと良い展示だった。マティスが良いのは、まあ「分かっているよ」という感じだけど(とはいえ、実物を観る度に、ああ、というショックはある)、ルオーがこんなに良いとは思っていなかった。油絵の具で描かれたタプローの色彩が、こんなに澄んでいるとは知らなかった。今までぼくが画集で観て知っていた(知っていると思っていた)ルオーとは全然違うルオーがあった。(水彩で描かれた作品は、ぼくの知っているルオーに近いものだったけど。)
ルオーの絵の、太い輪郭線によって囲まれた単純な形態と色彩は、通常ステンドグラスからの影響だというように言われるし、実際、水彩で描かれた作品などはそのような説明で納得できるものかもしれないけど、油絵の具の作品は、おそらく絵の具の物質性が、ルオーの意図以上の何かとシンクロして、意図しなかったものまでをも引き出してしまっているという凄さがあるように感じられた。
ルオーの色彩は、ひとつひとつを取り出してみれば濁っているということになるのだろうけど、その濁った色同士の関係(響き)が澄んでいれば、作品としては澄んだ色彩という風に見える。それは、明度が低い色を使っていても、色同士の響きが澄んでいれば、明るい絵のように見える、ということと同じだ。(明るく輝く黒というものもある。)
ルオーの油絵のごてごてに塗りたくられた質感は、おそらく歳月を経たテンペラ画の風合いを感じさせるもので、擬似的な古さ(現在からの遠さ)を感じさせる。そしてその効果は、単純化され太い輪郭線で縁取られた形態や、熱く塗り重ねられた絵の具の底の方から染み出て来るような色彩の非物質性によってさらに強められ、今、ここから遠くはなれた時空を出現させる。それは遠い過去というより、この現実の底深くに隠された、古い層の出現であるかのようだ。それは、いま、ここから遠くはなれた、おぼろげな幻想のようなものなのだが、その幻想的光景の「遠さ」のリアリティは、目の前にあるごてごてに塗り重ねられた油絵の具の物質的な現前によって支えられているように思った。(逆に言えば、それがない水彩画は、やや弱いもののようにぼくには思われた。)
強引な力技ともいえるルオーの油絵と、西洋絵画の洗練の極致のようなマティスの絵のコントラストがまた強烈で、クラクラしてしまった。マティスの人物画の、赤や黄色のうつくしさには、観る度に何度も改めて驚かされる。なんていうこともなくささっと仕上げたような薄塗りの風景画(ほんとうに何て言うこともなくて、画集で観たら、ちょっといくらなんでも力抜き過ぎじゃないの、と思うようなもの)から感じられる、光と空気と、色彩の冴え。(色彩といっても、ほとんどモノクロームに近くて、派手だったり鮮やかだったりする色は使われていないのだが、そのような色でも色同士の響きによって、冴えがうまる。)適当にしゃばしゃば塗っているように見える粗い筆致の、その長さ、幅、勢い、方向の全てが、画面全体のなかで完全に計算されているとしか思えない配置。
普通、「センスが良い」という言い方のなかには、「冴えている」という意味と同時に、「上手く納まっている(落としどころが絶妙、とか)」というニュアンスがあると思うのだが、マティスはセンスが良すぎて突き抜けてしまい、納まりどころがみつからなくて溢れてしまう感じなのだ。
展覧会の最初の方に、ギュスターブ・モローそっくりの絵があって、えっ、これ誰が描いたの、もしかしてルオー? 、と思ってキャプションを観たら、実際にモローの絵だった。いきなり、「マティスとルオー展」じゃないじゃん、と思った。(ルオーとマティスは、同じ時期に共にモローに絵を習っていたので、この展示は別におかしくはないのだが。)
寝不足と、予想以上に展示がよくてがっつり集中して観てしまったことで、帰りはふらふらだった。余裕があれば上野の西洋美術館にも、と思っていたのだが、時間的にも体力的にも無理だった。