●観たのは一昨日だけど、三菱一号館美術館の「ワシントン・ナショナルギャラリー展」がよかった。印象派周辺のメジャーな画家の作品を集めただけで、しかもこれといった目玉になるような作品もなく、ほとんど小品ばかりという地味な展覧会なのだが、一点一点の作品のクオリティがとても高い。その粒ぞろいな外れのなさに驚いたし、作品のチョイスの面白さにも感心したのだけど、実はこれは、ワシントン・ナショナルギャラリーの創設者の娘による個人コレクションだということで、この人は相当な目利きだったのだなあと思った。
まず、驚いたのはルドンの風景画で、これはほんとに小さいサイズの、普通の風景画なのだが、しかしまぎれもなくルドンであり、というか、ルドンのメジャーな作品よりもずっと良いとぼくは思った。こんなのがあるのだなあ、と、画家というのは奥深いものだと思った。こういう絵をチョイスするコレクターもすごいと思う。
マネの「芸術家の庭にいるジョージ・ムーア」という絵があって、いかにもさらっと短時間で描いた絵で、描きはじめたけど途中で放棄した絵のようにも見えるのだけど、これが、マネなのにほとんどマティスみたいで、マネのなかに既にマティスが(マティスの可能性が)住んでいるのだということがよく分かると思った。この絵は、できれば自分のアトリエに置いて刺激にしたいと思った。
ルノアールは、好きな画家とは言えないのだけど、「髪を編む若い女性」という絵を観ると、その超剛速球の実力をみせつけられる感じで、これだけのものを見せられれば、好きではないとはいえ文句は言えません、となる。現在でもなお、人間の肌を表現するための最強のメディアは油絵の具なのではないだろうか。「猫を抱く女性」の猫の描写もすごい。
展覧会の最初のところに、いかにも印象派という感じの風景画か並んでいて、まさに「いかにも」なものばかりで、見飽きているはずなのだが、それでもしばらく見入ってしまうようなクオリティの高いものがそろっていた。印象派の風景画は、それ以前の例えばバルビゾン派などとは違う強さが確実にあるように思う。それはクールベ以降の油絵の具の使い方であり、さらにクールベにはない色彩と空気の表現にあるのだと思った。ルノアールのところで「肌」と描いたけど、「空」もまた、油絵の具の透明感による表現に勝るメディアはまだないのではないか。
透明感と言えば、ラトゥールの自画像が、油絵の具の透明感を上手く使って、3Dみたいな不思議な効果をつくっていた。
ヴァロンの「バターの塊」は、これぞモダニズム的な詩的自己言及のリアリズムだと思う。画面の真ん中にどかっと大きなバターの塊がなまなましく描かれている。この絵の命である、まさに「バターの塊」としか言いようのないリアルな質感は、それを表現しているメディウムである油絵の具の質感によって可能になっており、それと響いている。つまり、油絵の具の質感がバターの質感を表象しており、そこで生々しく表象されたバターの質感が、油絵の具というメディウムの隠喩となっている、という感じで自己言及的にぐるぐるまわっている。この時、リアリズム=メディウムスペシフィックになる。
そしてボナール「画家の庭の階段」。ボナールの多くの作品は、ぼくが知る限りもっとも絵画であることに自足しているように思う。自足しているというとネガティブに聞こえるかもしれないけど、それはとんでもなく過激な自足だと思う。ボナールの良い作品を観ている時は、その作品を観ているということ以外はどうでもよくなる。それが絵画であるという認識すらいらない、ただ観ている、というか、観ているという認識すらいらない、ただボナールが侵入してきて、感覚がボナールになる。あまりにもぬるま湯的に気持ち良過ぎて逆に辛い(すべての毛穴が眼になってそこから色彩の振動が侵入してきてくすぐる)、というような試練を経験する。からだがなくなってしまうみたいだ。
●オロスコを観るために行った東京都現代美術館の常設展で、角を曲がると戸谷成雄の「森の象の窯の死」がどかーんとあって、その右の壁に辰野登恵子、その先の奥の壁に松本陽子の絵が展示してあり、さらに先には川俣正インスタレーションの半立体模型があって、という一角があり、そこの漂う空気がまさに九十年代はじめ頃(ぼくが学生か、大学を出たばかりの頃)の「日本現代美術」のもので、それも角を曲がったところに不意打ち的にあるので、ほんとにぶわっと時間が巻き戻ったかのような感覚になった。