●ぼくにとって、ゴタールの3Dによって突きつけられるものは、「ゴダールは何をしているのか」というより、「わたしたちの知覚(脳)はどうなつているのか」ということの方だ。今、「青と黒」に見えるのか、「白と金」に見えるのか、という画像が話題になっているけど、ぼくにとってゴタール3Dはそれに近い。
だからそれは、作品というよりも怪奇現象のようなものと言えるかもしれない。「幽霊なんか信じてないのに、なんか見えちゃったんだよねえ」とか、「そこに女の人がいるのに、みんな見えないって言うんだよねえ」と、誰かが言うときの気味の悪さ。あるいは、「わたし」にそれが起こった時どうすればいいのか、みたいなこと。ありありと、いきいきと、「見えてしまった」のだけど、その「見えた」ことの根拠は実は何もない、というような感覚。
「画面そのものを観る」とか言うけど、「画面そのもの」なんか何処にあるんだよ、ということ。3Dは、スクリーンに投影されているのではなく、メガネを通して脳に投影されている。我々は、物を見て、それに触れているように思っているけど、そのリアルは、わたしの脳が(わたしが知らないうちに)、感覚データから勝手に構成してしまっているものに過ぎない。その構成の原理をわたしは知らないし、こちらの承諾もなしに勝手にそうであるようなものとして「進化」が決めてしまったものだ。もちろん、こんな理屈は理屈としては誰でも知っている。しかし、それはそれとして、普段の生活では、見えているもの、触れているものが「実在」だととりあえずは素朴に信じているし、目の前にいる人が、自動的に言葉をしゃべる人形ではなく、わたしには見えない独自の「こころ」をもった他者であると信じている。そうでないと上手く生活できなくなる。しかし、ゴタールの3Dを見ると、そのような素朴な信仰が揺るがされる。
これは、哲学的な、意識的、方法的な懐疑や括弧づけではなく、意識より以前に自動的に働いている「信」に働きかけていて、それが揺らぐということ。いわば、ヴァーチャルな精神病体験のようなものではないか。
ゴダールの3Dは、ぼくにとっては「作品」というより意識的に構成された怪奇現象や錯乱体験のようなものであり、それは、作品としての興味にはあまり向かわないということでもある。この経験は、作品の意味というようなものに着地するというよりは、それを受け取る一人一人の個別の身体に働きかけ、まずはその個別性を浮き上がらせるように思う。今、見えている「それ」は、自分の外側でではなく、内側で起こっていて、隣の席で見ている人と共有されたものではない、という強い感覚が生じる。そして、隣の人の頭のなかでも、おそらく何かが起こっているが、それはわたしの見ているものとは切り離されていて、わたしのものとどの程度似ていて、どの程度違うのかはよく分からない。いや、仮にそっくり同じだとしても、切り離されているということに変わりはない(わたしのコピーロボットとわたしは別人、みたいな意味で)。「これ(このように構成された知覚)」を見ているのは、宇宙のなかで「わたし」だけかもしれない。いわゆる「場を共有する」というのとは逆の経験。
映画が終わった後、わたしは隣の人とそれについて話すことはできる。そして、隣の人の頭のなかで起こっていたことも、わたしのものとそう大きくは違わないことを知る。「そう大きくは違わない」というのは、わたしも隣の人もほぼ同じ構造の脳と身体をもつからだろう。それで一安心しはするのだが、しかしそれでも、隣の人と「同じ映画を観た」とは言えないように感じられる。「お前は、隣の人と同じ映画を観た、とはもう言えない」ということこそ、ゴダール3Dの「意味」なのかもしれない。